今月の言葉

今月の言葉とは

「今月の言葉」とは、先人たちの遺した「金言」「格言」を通して、皆様が学習する上で、そして生きていく上でも
必要な「ヒント」を学び取っていただくためのページです。
ぜひ一度、先人たちの言葉にじっくりと耳を傾けてみてください。
その中には人間の奥深い心理や隠された真実が潜んでいます。
そしてその一言は私たちを癒してくれるとともに、生きる知恵と勇気を与えてくれます。
先人たちから身につけたものは、あなたのレベルアップにとって大きな力になるでしょうし、
きっと人生を実りある豊かなものにしてくれることでしょう。

※今月の言葉は、作者の都合により現在休載中です。ご了承ください。

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今月の言葉
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こころに響くことば
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今月の言葉

12月のことば 2010年度 (己丑、年盤/八白中宮) 12月 (月盤/一白) 12/8〜1/6
【わが心は天なり】
−佐藤一斎 言志録(一)−


此の心霊昭(しんれいしょう)不昧にして、衆理(しゅうり)具(そな)わり万事出ず。果たしていずれよりして之れを得たる。吾が生の前、此の心、何れの処にか放在(ほうざい)せし。吾が歿するの後、此の心、何れの処にか帰宿する。果たして生歿有るか。無きか。着想して此に到れば、凛凛として自らタ(おそ)る。 吾が心即ち天なり。

【訳 文】

この人間の心は不思議な働きをして、少しもくらからず、おおくの道理もこの心の中に具わっており、すべての事は皆この心から発するのである。このような霊昭不昧の心はいずこより得たものであろうか。

自分が生まれる前、この心は何処に放たれてあったか。また死んだ後、この心は何処に帰着するのであろうか。果たしてこの心は生まれたり死んだりするものなのか。

ここまで考えてくると、凛凛として自ら恐れ慎む気持ちになってくる。その理由は、吾が心が実に天そのものであると感得されるからである。

【語 義】

霊昭不昧(れいしょうふまい) → 不思議な働きをして、道理にくらくない。王陽明は「霊昭不昧、衆理具わって万事出ず」と述べている。

帰宿 → とどまる。

凛凛 → 恐れ慎むさま。

【付 記】

この条からは、一斎先生の宗教観・生命観の一端を窺うことができます。
「衆理(しゅうり)具(そな)わり万事出ず」とは、物事の正しい筋道、また人として行うべき正しい道をわきまえることを、生来備わっているのだ、ということでしょう。

「わが心は天なり」とはつまり「われは神の子・仏の子(永遠に生きとおしの命とか宇宙生命エネルギー)として自覚する」ということです。この「わが心は天なり」という言葉にいつも勇気づけられる二つのことがあります。

ひとつは自己の善心を信じ、他者の善心を信じることの大切さです。「信じ切る」ということは、何よりも不安が生じないからです。万事、天意(神意)に「お任せ」の境地にも通じ、泰然たる態度でものごとに向かえることができるものです。ひいてはそれは実相を観ていく(あるがまま観る)ことの修練にもつながります。

神道や仏教では、人は皆「神の子・仏の子」として性善説が根本になっていることはご周知のとおりです。
この世でのあらゆる争いは、この本来の仏性・神性が曇ってしまっていて「個我」を主張しすぎ、不調和を生じて
しまうのです。

それは現象世界の、この肉眼で見えるものだけを信じる癖からだと思うのです。見えるものだけだと区別や差別の違いを観る見え方が強くなって、心の深奥にある、共通の善なる心(仏性・神性)が見えなくなっているのです。

現代は著しい科学技術の進歩により先端技術の機器などを通し、いろいろな波動(気・念波・気功・オーラなど)や、微小な生物・細菌などもしっかり数値化や映像化でき、肉眼で観察できるようにはなってきています。が、この世は、まだまだほとんど肉眼で見えない世界のことの方が圧倒的に多いようです。見えない世界を信じることは、自分の命の捉え方が全く変わってきます。

ふたつめは、自分は何者か・・・ということです。自分は何処から来て、どこへ向かうのか・・、この世に何を果たしに来たのか、などと一度は深く考えられたことがあるのではないでしょうか?いま、どのように感じていらっしゃるかはこの場では個々人のお考えにお任せいたします。

先日、若いころに読んだ本に記載されていたことを突然に想起したのですが、 「人生は二輪の自転車のようなもの・・・。現生の輪(今生の心とからだ)と、果てしなく回り続ける永遠の輪(永遠に生きる命と魂)のふたつの輪からなりたっている、という考え方です。その二つ輪が私たちを支え、生かし、動かし続けているのです。この永遠に生き続けている命、生かされている命を思うと、「凛凛として自ら恐れ慎む気持ちになってくる」のです。

今生で出逢ういくつもの人間関係において、魂がそこで深く何かを語ってくれていることを、心眼で観て、耳を澄まして聴きとりたいものです。人生とは出逢いなり・・・よき出逢いをお祈りいたします。

今月号をもって私の「今月の言葉」は担当を終わらせて戴きます。7年間の、ご愛読を戴き、ありがとうございました。心から深く感謝申し上げます。 合掌  (華)

こころに響くことば

2010年12月
『通ずれば其の礼する所を観る (八観より)』
−安岡正篤氏−


今年もとうとう師走を迎えました。この数日は寒冷前線の影響での大荒れでしたが、雷は日本海側の「雪起こし」といって雪を招くそうです。 思いがけない師走の風の被害に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。
幾分、心ぜわしくなって参りましたが、このような時期だからこそじっと腹を据えて、いざという時の行動のために、世間や物事の成り行きを見守る必要があるのかもしれません。

今月は人間を見極める「人間観察法〜八観」を安岡正篤氏の著書からご紹介させていただきます。

「八観」とは、八種類の人間観察法です。

(1)「通ずれば其の礼する所を観る」
 地位のある役職に就いて、何を尊重するようになるかを観察しますと、それになりに人物を知ることができます。

(2)「貴(たか)ければ其の進むる所を観る」
 地位が上がるとどういう人物を進めるか、人物ばかりではありません。ゴルフを進める人、囲碁を進める人とか、その進めるところで人物が判ります。

(3)「富めば其の養う所を観る」
 経済的に恵まれてくると、何を養うのか、これはいい着眼となります。財ができると家を建てるとか、骨董品を集めるとか、動物を養ったり、女性を養ったり、とその養うところにより人物を観察できるのです。

(4)「聴けば其の行う処を観る」
 聞いても聞きっぱなし、で実行しない人がいますし、すぐに実行に移す人もあります。他人の善言を聞いてどうするか、を注目することは人物を知る一手段になります。

(5)「止(いた)れば其の好む所を観る」
 止まるという字は足趾の象形文字です。あるところへ達すること、そこで止(いた)ると読みます。またとどまる、とも読み、そこに行き着くことです。
 例えば重役になったら、ゴルフをするようになった、などの観察結果です。

(6)「習えばそのいう所を観る」
 習熟すると、どういうことを言い出すのかを観察します。これも真に切実なことで、碁を打っても、将棋を指しても、楽器をやっても、習熟しますと言うことが違ってくるのです。その言うところで人物観察ができます。

(7)「窮すればその受けざる所を観る」
 人間ですからいいことばかりではありません。窮することも出てきます。貧窮しますと人の援助を何でも受けようとします。そのような境遇にあって、何を受けないかをみて人物を観察します。受けるところではなく、受けざるところを観るのが妙味です。

(8)「賤しければその為さざる所を観る」
 賤しくなると、何をしたって構うものか、といって人間、何でもやってしまうのか、そのような境遇になっても、何をしないのかを観察するのです。

 人生の真の目的は「人格的成長」です。地位や財を得たり、学問的に成功したりすることが目的ではありません。それらはある地点での目標なのです。
人生におけるあらゆる場面において、我々を成長変容させてくれる課題は次々に与えられています。その課題をどのよう乗り越えていくかが、まさに人物として成長していけるのではないでしょうか?人生の最後の一瞬まで、楽しみなことだと思われませんか?

(華)
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