1月のことば 2010年度 (己丑、年盤/九紫中宮) 1月(月盤/四緑) 1/5〜2/3
【人生の五計】
一、生計 われ、いかに生きるべきか。
一、身計 われ、いかにわが身を立てるべきか。
一、家計 われ、いかに家庭を営むべきか。
一、老計 われ、いかに年を重ねるべきか。
一、死計 われ、いかに死すべきか。
安岡正篤 〔出典 朱新仲〕
【付記】
新年おめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
今月の言葉は、南宋時代の哲学者・朱子とほぼ同時代に生きた、見識ある官吏の「朱新仲(しゅしんちゅう)」の説いた教訓の一つとして、東洋思想研究家の安岡先生が紹介されたものです。
昨今は世紀末的な様相を呈していますが、その時代に遭遇して私たちはどのように生き抜いていくのか、を年頭にあたり自分の人生の五計を今一度見直してみませんか?なお、「べき」の表現は「の」変えてお読み下さい。
今月はまず根本である「生計」について考えてみたいと思います。「生計」とは、一般に生活や暮らし向きのことを想定しがちですが、ここでいう生計とはもっと大きな意味の、「天地の大徳」を受けて生きる(生かされている)、人間の本質的な生き方について問われています。
「生かされている」いのちをどのように生きる(べき)のか、ともいえるでしょう。
人間にとって最も大切なことは「生」だといえます。なぜなら生れ落ちてから死ぬまでの「生きること」自体が根本的な実践哲学だからです。人間の「生の理法」は人間というものの根源、つまり「天の理法」に合わせて生きることにほかありません。つまり人間がどう自然に合わせて生きるか、のかといえます。安岡先生によりますと、人間の思索は抽象化しやすいもので、それは一見、高尚のようにみえますが、非常に危険を含み、また空虚、浅薄、空論になる傾向を否めず、ナンセンスだとも言われています。
従って「生」についての思索は、できるだけ「生命・造化(天地の万物を創造し、化育すること。また自然の順行)」という自然の理に即した考えが大切なのです。
具体的、実際的、創造的、実践的でなければ弊害がでてくるのです。文明病的な知識人が、概念、抽象、理論思推でよく三段論法を講じますが、この論理が大きな原因であるのです、と。 たとえば三段論法の原型の A=C、B=C ゆえにA=B というような理論の進め方です。抽象、符号的な場合はこれでも良いのですが実際的にこれを応用すれば、「人間は動物である。犬は動物である。ゆえに人間は犬である」となれば、ご承知のようにとんでもないことになるのです。人間は常に真実に帰る必要があります。つまりそれは、「天人合一」のことです。人間のあらゆる環境、経済、政治、医療問題などすべて天(自然)に内在していて、そこから流れ出て「天人相関=天人合一」しているということです。
一切が天然自然であり、人間の理論、理屈で存在しているものではありません。「自ずからきたるもの」なのです。なるべくしてなる、のだからむやみに逆らわず自然にまかせる(自然法爾)の生き方といえるでしょう。
自然破壊による地球の環境汚染があるということは、当然ながら人間の身体も汚染され、病んでいるのです。真に健康になりたければ、まず地球全体の環境を改善していく生活に切り替えなければなりません。いたずらに快適性、便利性を追う欲求生活は猛反省しなければならない時期はとっくに到来しています。
また漢方では、天人合一観を養生法に活用しています。冬期の気候は寒さが厳しいものですが、その自然環境が人間の体内にもある(厳しい冷えが)、という考え方なのです。それで身体を温める薬効のある薬草や食物を摂ったり、気候が暑ければ、体内の熱をとったり、冷やしてくれたりする食物を摂るということです。
人間が自然環境に合わせ、決して自然を無理に克服するという考え方ではありません。さすればCO2による温暖化問題にも好影響でしょう。
「生計」とはつまるところ、自然と人間との一貫した創造の理法です。すなわちつねに自然とともにあるいのちと真理に帰することが肝要ではないでしょうか?生計は、いかに健康的に生きるか、いかに地球の環境を守るかなどを真剣に考えながら、快適性、便利性との関係調和を考える計、といえるのではと思います。自然は愛そのものです。そして人間は大自然の一員、自然がイキイキしていないと人間もイキイキできないのではないでしょうか。
簡略ながら「生計」について述べてみました。さて、あなたはどのような「生き方」を目標とされるでしょうか? (華)
2月のことば 2010年度 (己丑、年盤/八白中宮) 2月(月盤/二黒) 2/4〜3/5
【成徳達材には師恩友益多きに居る】
吉田松陰 〔士規七則〕
【付記】
今月の言葉「成徳達材には師恩友益多きに居る」から、引き続き「人生の五計」のうち、下記の「身計」について考えてみたいと思います。
一、 身計 われ、いかにわが身を立てるべきか。
「身計」とは、私たちがいかにして身を立て、身を持するかの心構えや立志を計るか、の考えを定めることです。いかに自己を築き上げるのか、実は「身計」は学生時代から心しておかねばならないのです。
この問題は深く限りがないのですが、自分にふさわしい立身をするには、要は「師」と「友」が大切である、ということです。ご承知のように、いくら本人が優秀であっても、独力だけでは何事も到達しがたいのではないでしょうか。
標記の吉田松陰の「成徳達材には師恩友益多きに居る」は、天性 (生まれつきの性質、才能)の才に恵まれているほど、師恩友益を必要とする、というものです。「成徳達材」とは、徳(人間の本質的要素で徳性)を成し、材(才の意で知能や技能)に優れている、ということはつまり人間の本質と目的がいずれも含まれているということです。
人格的完成には「成徳達材」が要件であり、そのためにも多くの師友が重要であり、
また師友は慎重に選ばなければなりません。
『論語』顔淵第十二に、「曾氏曰はく、君子は文を以って友を会す、友を以って仁を輔(たす)く。」とあります。君子が学問するのは心の全体の徳である仁を求めるためです。
この場合の仁は通常の仁愛(人を愛す)という解釈より、もっと深い意味をもっています。宇宙や人生を通して万物が生成化育(天地自然が万物を生じ育てること)していくこと、その徳が仁(自然愛)です。その仁が発して枝葉となり結実し、その鮮やかな成果が文化とか教養だといえるのです。
「文を以って友を会す」は、文化・教養というもので友が集まり、友が増え、それによって人間の徳を養っていけるのです。友仁というわけです。
その友によって善を勧め、過ちを改めてわが仁を行なう輔けとするのです。その友の道は、「忠告して之を善道し、不可なれば則ち止む。自ら辱めらるること無し。」ということです。このような友を得なければならないといえます。 どのような人物と交わるかによって、人生は180度変わるものです。
さて「友」は得られたとしても「師」というものはなかなか得がたく、経の師(学術的知識的に優れた)は出会えても、人の師(人間的に優れた人格の高い師)にはまことに遇い難いものです。心して探し求めたいものです。
いわゆる師とは「真の人間を造る」、つまり子弟が将来いかなる地位に就いても、人から信用せられ、いかなる仕事にあたっても容易に習熟する用意のできている、そういう人間を造ることが教育の主眼となっている人物です。
また、漫りに人に教えるのではなく、まず自ら善く学ぶ者でなければならないとは、古今東西、先人たちを通じて言われてきていることであり、教育者の大原則だといえます。
昨今、国内外の自然界はもちろん政経界も大きな変化期を迎えています。しかし根本的な変革・改善には難しい諸々の問題があるようです。
もっと積極的言えば個々人がこの国をどう建て直すのか、しっかりと自我関与することが必要と思います。
「いま自分には何ができるのか」と内面的、霊性的な創造をして人間性を高め、それぞれの立場で志ある者が自ら信ずるところを実践していくより、世を良くする道はないのではないかと思うのですがいかがでしょう。
『それが達成できないのであれば国民として混乱・犠牲はやむを得ない、と甘受しなければならないのである…。これが「身計」の最後の覚悟である』と「人生の五計」で安岡氏は述べられております。
伝教大師の云われる内面的創造とは「一灯一隅を照らす」です。 (華)
3月のことば 2010年度 (己丑、年盤/八白中宮) 3月(月盤/一白) 3/6〜4/4
【人間は長じて 家をなす】
安岡正篤(東洋思想研究者)
【付記】
春三月は人生もろもろのスタート時期にもあたり、結婚も大きなその人生イベントの一つでしょう。結婚動機やどのような家庭を営むか、をしっかり見据えておくことは家庭経営に大切な指針となることと思います。ひいては次代の子供の教育の土壌となる場でもあり、おろそかにはできません。
さて先月の言葉「身計 われ、いかにわが身を立てるべきか」に続き、人生の五計の第三は「家計」について考えてみたいと思います。
一、家計 われ、いかに家庭を営むべきか。
「家計」を考える出発点は、まずは「結婚」という問題でしょう。結婚は人間の本質的、根本的な問題で、歴史的にもろもろの学びがあるにも関わらず、この問題に関してはいまだ古来同様の苦悩を抱えているのが現実です。
この問題も実は夫婦として家族として、いかに他人同士が絆を強く結ぶためにどう築いていけば良いのかが問われていると思います。夫婦はじめ家族関係相互の自他の洞察や、愛情というものの育み方など根源的問題があります。 結婚動機、結婚観があまりにも表層的、道具的に過ぎると人生そのものも見誤りかねま
せん。自分はどのような配偶者と出逢い、どのような家庭を築き、どのように家の営みを続け、治め、整えるか(斉家)、また次世代の子孫となりに自分の「家」の文化をどのように継承していくかなど、じっくり時間をとって考察する機会を持ちたいものです。
結婚というものは「新家庭」を創造するという本質的な問題であります。
相手の家柄、地位や、所得、学歴、容貌などの表層的なことで決められるものではないのですが、いざ、結婚となるとやはりそれらが問題になってしまうのは自身の「結婚と生き方」についての本質的な基準があいまいな点があるのではないでしょうか?
もちろん、年齢や経験でそれらは変化する可能性もありますが、結婚を考える時点でやはりひとつの結婚観というビジョンを持っていたほうがよい、と思います。恋愛も含めて結婚相手を探す人たちの話を聞いていると、極めて表層的なことでの迷いが多く、人と人の結びつき、家と家、親族と親族など結婚を通してどのような絆を結び、どのように人生を送りたいのか、自分はどう生きようとしているのか、を問わなければ人生も表層的になってしまいます。無論、表層的なことを無視しなければならないというのではなく、表層的なもののなかに、いかに内実的な意味が含まれるか、が大切だと思うのです。
家庭とは何か、が学問的に定義されています。それはさておき、最近、一般的に家庭は「安息の場」や「享楽の場」という考え方が増えてきて、家庭が「努力」「創造」の場という機能を失ってきています。
つまり家庭教育として、子供に正しい特性と良い習慣を養う「人づくり」の場としての力が希薄となってしまっている、と安岡氏は嘆いています。家庭の実相が無内容になるということはひいては「人間、民族、国家、世界」として頽廃していく微妙な契機となるものです。
家庭で万物の霊長としての人間教育がなされるとき、もっとも大切なのは愛というより「敬」と「恥」であると前者は喝破しています。他の動物との違いはその二つです。「敬する」というのは、自ら敬し、人を敬すること。敬の心とはより高きもの、より大いなるもの、偉大なるものに対して生ずるものです。進歩向上の対象を創造する、その創ることに対して、敬する心が生ずるのです。
「敬」は宗教的に発達し、「恥」は内省的なものが発達し道徳となり、自律的になります。「敬」は「参る」という言葉に通じ、西洋で言う「愛する」という言葉のなかに「敬」が含まれていないようですが、日本語の「愛する」の言葉には「参る」といい、「愛する」の一歩進んで敬い、頭が下がる、感服するということになります。この心境になって初めて本当の結婚が成り立つわけです。
民族の繁栄を考えると子供の養育問題も重要で深いのですが、別の機会に譲りたいと思います。まずは良い結婚をするため、良い家庭生活を築くためにはどういう自分に成長させたいのか、を考える機会を持ちたいものです。(華)
4月のことば 2010年度 (己丑、年盤/八白中宮) 4月(月盤/九紫) 4/5〜5/4
【人は成熟するにつれて若くなる】
−ヘルマン・ヘッセ−
【付記】
標題は、ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)の著書のタイトルに使われている言葉です。いかにして人はよりよく「老いる」ことができるのか、古今東西の賢人たちが考察してきたことです。なぜなら我々はこの世に生を受けたら、必ず老死に向かいます。そのためには老いるための計りごとが肝要と思うのです。
老死について若い時から考慮しておくことは、いざという時にも慌てないですみ、人生への構え、というものがつくられるのです。今月は「人生の五計」のうち、第4番目の「老計」について考えてみたいと思います。
一、 老計 われ、いかに年を重ねるべきか。
「老計」とは、私たちがいかにして老いていくのか・・。老いる、ということは老衰と思いがちですが、実は「老熟」することなのです。世間での体験を積んで非常に練達した人のことを老練といいます。
ただ、年を重ねるのでなく、年を取ることが、それなりに値打ちのあるものでなければならないと思うのです。年を取ることにたいていは否定的にとらえる事が多いのですけれども、実は「老計」からみると、年を重ねることが楽しく、意義あることだと認識すべきではないかと思うのです。そのように視点を変えるだけでも、年をとることの楽しみが見えてくるものです。
伊藤仁斎先生(江戸前期の儒学者 )が「老去佳境に入る」という詩を書いておられますが、人生の妙味、学問の妙味などは、年を重ねるとともに深く解ってくるものです。若いときはやはり何といっても未熟であり、果物の味なども未熟なものは美味しくないように、甘さ以外の渋み、苦みの味は人間にすれば50歳を超えないと顕れてこないものです。このころになると野心というものが少なくなってきて「老計学」の有名な言葉で「行年五十にして、四十九年の非を知る」こととなるのです。つまり自分を知る「知命」です。
人生の諦めについて、内容のない諦め、俗に「あきらめ」と非常に高度な諦めがあります。仏教でいう「諦観=悟りの境地」です。自己の運命、「知命」と「立命」などいろいろありますが、その命を知る、ということになります。
最近は「生涯発達」の観点でライフサイクルも見直されていますが、「行年五十にして、四十九年の非を知る」のあとに「六十にして六十化す」とあって、60歳になっても60になっただけ変化するという意味で、すなわち、年をとるほど良く変わっていかなければならない、つまり発達するということです。
年老いてからは固まってしまってはならない、ということです。固くなるのは死に近づいていることです。柔軟性を持って柔らかく生きる、ことが大切だと思うのです。
また「老」という字は老いるという意味のほか「なれる」「練れる」の意味があります。「老酒」はトロッーと陶然としているし、ワインも古いほどほど、円熟した薫りと味が芳醇となります。刺激というより、味わいをかみしめる、のが老境の特徴といえるのでしょう。あらゆる意味において、若い時には分からない、味わえなかったような佳境に入る・・・、これが本当の「老計」といえます。
同時に人間の徳というもののなかで情操は非常に大切ですが、老成すると非常に情が発達するのだそうです。佐藤一斎先生も人情の厚いのは美徳である、といわれています。夫婦も年を取るに従い良くなる、というのが本態である、とも言われております。茶飲み友達とは味の分かる深いものです。
老計には「養生」というのも大切です。貝原益軒(1630-1724)の養生訓を残した人物ですが、本草学(中医薬学)、地理学、歴史学など倦むことなく修め、年とともに学問・思索・心境すべてに長じ、その楽しみを知っていたようです。身体の養生法はあちこちで知ることができますが、むしろ、身体や脳を使い続けて健全に老いていくことを知っておく必要があると思います。
最近は大脳生理学などでも知られていますが、頭は使うほど良く、難しい問題に取り組むほど脳は衰えないでいられるそうです。つまり鍛錬陶冶が大事で、易しいものにばかり頭を使っていると急速に衰えてしまう例をいくつも知っています。便利で安易な生活をしていることはすでに足腰、頭脳も衰えさせていることといえましょう。
高齢化社会に突入している日本、各人が老計をもたないと国の滅亡さえありうるのではないかと懸念しております。 (華)
5月のことば 2010年度 (己丑、年盤/八白中宮) 5月(月盤/八白) 5/6〜6/7
【昼夜は是れ一日(いちじつ)の死生にして、呼吸は是れ一時(いちじ)の死生なり。只(た)だ是れ尋常の事のみ。】
−佐藤一斎 言志耋録−
仏教では死生を第一義の重大事、としています。今月の言葉のように、佐藤一斎先生は「自分は、昼と夜は一日の生と死であり、人間が吸う息と吐く息は一時の生と死である。ただこれは日常ふつうに行われていることである」と述べられています。しかし、我々のよりどころは、死生のほかにあるのだから、ぜひとも、このことを自ら探求して、自ら体得しなければならないと仰っています。つまり「生死」を越えよ、ということです。
さて今月は、本年度1月から連載している人生五計のうち、いよいよ最後の「死計」となりました。これはいかに死すべきか、という計りごとです。
一、死計 われ、いかに死すべきか。
−安岡正篤 〔出典 朱新仲〕−
この計については、多くの人がまだ自分には関係がない、という認識がおありかも知れません。しかしながら、「おぎゃあ〜」とこの世に誕生してからは、長短はあってもずっと「死」に向かって走り続けることになるのが宿命です。有限性であるこの今生の命をいかに生き、いかに死すべきかは、年齢にかかわらず重要な問題であるという認識が必要だと思います。
よく「阿吽(あうん)の呼吸」などと言い、ともに一つの事を行うときなどの相互の微妙な調子や気持ちが一致することなどを言っています。
が実は、梵語で「阿」とは、口を開いて発する音声で字音の初めであり、「吽」とは、口を閉じるときの音声で字音の終わりをいいます。これはまた万物の初めと終わりを象徴したもので、人間なら「おぎゃあ〜」と生まれて、「う〜ん」と命を終わることをさしています。故に一呼吸は一時の死生、昼夜は一日の生死と言えるのです。
さて、いかに死すべきかは、ご承知のようにいかに生きるべきかと同様のことをいっております。死ぬということは、人間の霊(魂)が「限定された生」から「無限定の生」に遷化することであり、生物はみな「死」を畏れるが、人間は万物の霊長であれば、その死を畏れないように心を安住させなければならない、と安岡先生は述べておられます。つまり「死」というものの考え方、見方をいかにもつべきか、がそれぞれに問われるのです。
また前出の佐藤一斎先生は、「自分の身体は天からの授かりものであり、死ぬ、生まれる、ということはもともと天の為すものと考え、逆らわず、また畏れもせず、その天命に従うことは至極当然なことである」と言われています。
出生のときの喜びなどはまだ認識もなかったし、死ぬ時も当然、自然のことであり、悲しみを覚えない、ということです。「死生はすっかり天に任せるべきである」といわれる所以です。昼夜がひとつの道理であるように、一生もひとつの道理といえましょう。死生の真の理解、となればなかなか難しい面もありますが、仏教の「法身(ほっしん)」という考え方を用いると理解しやすくなるように思います。
「法身」とは、ごく簡単にいいますと、永遠の命そのもの、また霊の本体のことをいいます。つまり「死ぬ」ということは、この「永遠のいのち(=生命エネルギー)」に還って千変万化していくことだというのです。
生者必滅の理を悟って、死は畏れるに値しないことだと言えるのです。だからといって「死」を軽視することでは決してない、ということは当然ご承知戴いていると思います。
天から与えられた「いのち」を精いっぱいに生きて、そして天命に従って死ぬ、というまったく自然な循環と受け止めたいものです。自然界においても植物は時期が来れば芽を吹き、精いっぱいに咲き、時期が来れば実を結び、枯れて、次季での再生を待つことが学べます。「咲こう」としているのでなく「咲かされる」いのちなのです。そして人生は受け容れることだと言えます。
ともかく、「死計」とは「生計」でありますが、初めの生理的な生計とは違って「老計」を通してきた「死計」は、もっと精神的で、霊的な生き方を指しています。霊(魂)の不朽不滅、永遠に生きるという計りごとで、いわゆる生死を超越した生き方、死に方であり、たいへん深遠な問題だと思うのです。
要は人生の充実には「生計」「身計」「家計」「老計」「死計」とあって、この五計が順に巡ってもとに戻り、無限に人生・人間が発展していくこととなります。 最後に佐藤一斎先生の言志耋録にある「臨終の誠意」について訳文をご紹介しておきます。 「心を誠にすることは一生涯通じての工夫である。一息でもある間はそこに一息の心があるのだから、この心を誠にしなければならない。臨終には、ただ、さっぱりと心に何らの煩いがないことが肝要で、これが臨終の誠意ということである。」と・・・。ぜひ、そのようにありたいと願うものであります。 (華)
6月のことば 2010年度 (己丑、年盤/八白中宮) 6月(月盤/七赤) 6/7〜7/6
【一事一累】
−佐藤一斎 言志録(一)−
一物を多くすれば此処に斯(ここ)に一事を多くし、 一事を多くすれば斯に一累を多くす。
【訳 文】
物が一つ増えれば、やることが一つ増える。 やる事がひとつ増えれば、煩わしさが増える。
【付 記】
耶律楚材(やりつそざい⇒ジンギスカンやオゴタイカンに仕えた名宰相) は、
つねに次の語を口にしたと伝えられている。
「一利を興すは、一害を除くに如かず。一害を生ずるは、一事を減ずるに如かず」と。
現代人は衣・食・住の生活の中で、物を非常に多く持ちすぎているようです。あると便利という類のモノ、趣味のモノ、電気製品だけでも列挙すれば相当なものになるでしょう。
まして、車があり、家があり、そのうえ別荘まであります・・・となればそれにかかる営繕手間と経費は膨大なものになるはずです。また使わない、あるいは不要な戴きものも結構な数になり、押し入れや物入れに眠っているのではありませんか?
しかもいざというときにサッと必要なものが出てこないし、居住空間を狭くするだけで、まったくいいことはありません。
日本は四季を愛でる文化もあり、衣類はじめ食器や諸道具類まで、ほんとうにモノだらけ・・・。これでは、室内も片付かず、風通しも悪くなり、風水などでは邪気たまって運気が上がらない、と見るそうです。
またすべての物体には波動がある、とアインシュタインも説いています。家の中を占領しているモノたちから発せられている乱雑なエネルギーが、見た目も日々の生活にも混乱をきたし、知らず知らずにストレスを生みだしています。
英国では押し入れなどが少ないため、非常に合理的な、シンプルライフが好まれている
ようです。いつでも旅立てる部屋に住もう・・・と。
スッキリと片付いた部屋は、掃除も管理もしやすいものです。まして、いろいろ考え事や集中をしたいときは、余計なエネルギーを使わないですむのです。
「一事一累」、モノの数だけ煩わしいことがある、と心して思い切って身の回りをすっきりとさせ、暑い夏を前に風通しをよくしていきませんか?しかもライフスタイルがシンプルになればなるほど、モノの本質や、質の良い人生が見えてくる・・・というおまけつきです。 (華)
7月のことば 2010年度 (己丑、年盤/八白中宮)7月 (月盤/六白) 7/7〜8/6
【誇伐(こばつ)の念を省みる】
−佐藤一斎 言志録(一)−
纔(わずか)に誇伐の念頭有らば、便(すなわ)ち天地と相似ず。
【訳 文】
少しでも頭の中に誇り高ぶる気持ちがあれば、それは天地の道理と相離れることである。
【語 義】
誇伐 ⇒ 誇は大言する言葉、伐は自ら功績を称える意味
【付 記】
山は高い、といって誇りません。花は美しいといって誇りません。鳥は良い声で啼いても自慢するわけではありません。太陽は朝から夕まで照らしてくれますが、別段、我々に恩に着せるわけではありません。このように天地自然は誇らないものです。天地の道理をよく自得しなさい、ということでしょう。
我々は人より少しばかり良いことがあると、つい自慢したり誇り高ぶったり、偉ぶったりしていい気になってしまうのですが、他者から失笑をかっている場合も少なくありません。佐藤一斎先生はそれを深く戒めておられます。
自然界は驕らず、誇らないのに、人間はなぜおろかにもその感情に振り回されてしまうのでしょうか?
ところで、よく知られている自己実現論に「マズローの欲求5段階(階層)説」があります。
1. 生理的欲求(physiological need)
2. 安全の欲求(safety need)
3. 所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
4. 承認の欲求(esteem)
5. 自己実現の欲求(self actualization)
1.〜4.までは欠乏欲求とされ、5.は成長欲求としています。人間は生まれ落ちた瞬間から、生存するために生理的欲求、つまり食欲や排泄欲求のように低次元の欲求から常に次の階層次元への欲求満たそうとします。それが満たされないと次への段階に進まず、さらに成長欲求が生じにくい、と言われています。
高次の「自己実現欲求」段階に行く前の4段階目に、人間は人から認められたい、という「承認欲求」がありますが、この「認められる」「受け容れられる」ことの経験が少ないといつもフラストレーションが生じることになってしまいます。最近は企業や学校でも、この心理状態を把握して、「承認していくこと」で、相手のやる気を促進させることも多くなりました。
しかし、自分のことを他者からいつも理解してもらえ、認めてもらえるとは限りません。むしろ、認められ褒められなければ行動できない条件付けの人間になると、むしろ家畜やペットのようなものになってしまわぬかとやや心配でもあります。つまり自己評価が他者依存的になってしまうのです。ひいては、自己責任が果たせずいつも人のせい、環境のせいに考えがちにならないとも限りません。
もっと自分が主体的になることが望ましいのです。他者の評価に振り回され過ぎず、自分の存在価値をどのように、自己認知していくかが肝要だと思います。そこに他者との比較はありません。「随処作主 立処皆真」(随所に主となれば、立つ処みな真なり)です。
宇宙の生成から見ても、とてつもなく大きな自然バランスのなかで人間ひとりひとり生きている、というか生かされているのです。それを知るために自然界を良く観察しなさい、と言われているのです。禅僧が自然のなかで座禅をするのもそれを体解するためでしょう。それを理解すれば誇る気持ちは不要なのです。
ちなみに世の中の成功している、と言われる人がほとんど「この成功は私一人でできたものではない、みんなの力のおかげだ」と言って口を揃え、ひとりひとりの存在価値を認めています。むしろ、偉ぶったり、手柄を自慢するようでは、人間関係の調和も乱し、その功績はいずれ雨散霧消することになりかねません。
「人間万事塞翁が馬」で、今日良くても明日は最悪のことが待っているようなことがあるのが人生です。東洋思想は、いかに心身のバランスを保ち「平静」の状態においておくかに焦点が合わされています。驕らず、高ぶらず、「おかげさま」の感謝が自分を幸せに導いてくれる、と思うのですがいかがでしょう?(華)
8月のことば 2010年度 (己丑、年盤/八白中宮)8月 (月盤/五黄) 8/7〜9/7
【名を求むるも避けるも非なり】
−佐藤一斎 言志録(一)−
名を求むるに心有るは、固(もと)より非なり。名を避くるに心有るも亦非なり。
【訳 文】
名声を求めるのに、無理な心があるのはよろしくない。また、名声を無理に避けようとする心があるのもよろしくない。(身分不相応な名誉を求める心はよろしくないまた、当然受けるべき名誉を受けないという心もよろしくない)。
【付 記】
人は誰でも他者から承認されたい、認められたいという気持ちを持っています。そのこと自体は決して悪いことではないと思います。人間にとってごく自然な感情欲求と言えるでしょう。また人は誰でも他者から承認されたい、認められたいという気持ちを持っています。そのこと自体は決して悪いことではないと思います。人間にとってごく自然な感情欲求と言えるでしょう。また逆に自己顕示欲的な言動は良くないと抑えたり、有名になることをことさらに拒んだり、名誉を避けることもよろしくない、と仰っています。
ただ、いずれも行き過ぎた思いは良くない、と一斎先生は仰っています。
仏教や東洋思想では「中道」や「中する」ことが尊ばれてきました。中道とは、釈尊が悟りに至る道や、譬喩(ひゆ=譬え)を通して我々に教えを遺して下さっています。
29歳で出家した釈尊は、当時のインドの伝統的宗教にならって「苦行」に精励していました。6年にも及ぶ壮絶なさまざまな苦行をしたものの、身体は極度に衰弱し、むしろそれにとらわれたり、幻惑が生じたりしたのです。結局、悟りにはなかなか至る事ができないでいたのです。ある日のこと、通りかかった村娘スジャータの捧げる乳粥を食べて、体力のついた釈尊は、再び菩提樹のもとに座り瞑想に入り、ついにこの世の真理の悟りを得る事ができたのです。
その中心概念が「中道」です。
王子として生まれ、恵まれた生活のなか、快楽と欲望に溺れた生活は、決して心を満たすものではありませんでした。しかしながら、極度に身体を痛める難行苦行も、また、真の悟りへの方法ではない・・・と。そしてついに悟りに至るその方法は、その両極から離れた「中道」にある、と悟られたのです。
「中道」というと「中間的」「中途半端」のように受け取られがちですが、中道とは偏りをなくした適正中立的な立場にたって物事を見ることこれを「実相」を観るともいいます。つまり、「善い」「悪い」などの二元論的な考えとは異なります。
偏見や我見をなくし、あるがままの姿を見極める正しい見解をすることです。
この「功名をことさらに求める」のも「名誉をことさらに避ける」のも、無理に過ぎるのはよくありません。いずれにしても自然体で世間の風に任せよ、ということだと思います。いたずらに、人生の本質的でないことに心を煩わせても、得るものは少ないと思うのですがいかがでしょうか? (華)
9月のことば 2010年度 (己丑、年盤/八白中宮) 9月 (月盤/四緑) 9/8〜10/7
【富貴は春夏の如し】
−佐藤一斎 言志録(一)−
富貴は譬(たと)えば即ち春夏なり。人の心をして蕩(とう)せしむ。貧賤は譬えば即ち秋冬なり。人の心をして粛(しゅく)ならしむ。故に人富貴に於いては即ち其の志を溺らし、貧賤に於いては即ちその志を堅(かた)うす。
【訳 文】
金持ちとか身分が貴いとかは、喩えると春や夏の気候のようなもので、人の心をとかす。即ち怠けさせる。貧乏であるとか、身分が低いとかは、喩えば秋や冬の気候のようなもので、人の心を引き締める。すなわち人は富貴にあってはその志を薄弱にし、貧賤にあってはその志を堅固にする。
【語 義】
蕩(とう)→とろかす 粛(しゅく)→心をひきしめる
【付 記】
昨今の日本経済はアジア経済のすさまじい発展のなかで、世界的にも難しい立場を強いられているようです。かつて「Japan is NO1」時代もあり世界経済をリードしてきました。いわゆる日本の春・夏時代であったと思います。
しかしながら巡環の法則で近年は秋・冬時代に入っています。バブルに象徴されるように経済的に潤っていると思われるときは人心もついつい驕りや怠け心で、精神も緩んでしまっていたと思われます。つまり「人物」が育たないひよわな時代といえるかもしれません。
最近の日本は、産業の空洞化に加えて、若い世代の失業率が7%(2007年)超え、以後も上昇し続け10%台に行くのでは、と懸念されています。また20〜30代の死因の原因の第一位は自殺ということです。世界的にもこれらの風潮はあるようですが、由々しき問題となっています。
ただ、悲観的にばかり状況を捉えていては人としての進歩がありません。歴史を振り返ってみても、人間、厳しい条件下におかれた時ほど物事や生きることを真剣に考えることが多いものです。例えば大きな目標を達成するためのストレスがあったときにこそ、思いもよらないアイデアや工夫や創造力も発揮できることも知られています。苦しんでこそ得られる果実なのですね。
若者たちに申し上げたいのは、「今」の時代こそ、自分たちが「どう生きるのか」と人生に真剣に向かえる良い時代なのだ、と心を切り替えて欲しいですね。
自己実現のために何をしたいのか、どう生きたいのかをじっくり吟味して欲しいと思います。時間がかかってもいいのですから・・・。とりあえず食べるための仕事をしながらでも、趣味のような身近なところから自分の心が充足するようなことを見つけて行きましょう。出来ないのは自分に「できないいいわけ」が多すぎると思います。
前出した昨今の自殺原因は「自分が何をしたいのか、解らない」という人が多いそうです。仕事も食べるために働く、という前時代のものより、自分が何をすれば満足か、というようなメンタリティに重きを置かれているようです。若い時から自分の道が見えている人は幸いです。しかし、そうでなくても焦る必要はなく、生涯かけて「自己探求」「人間成長」の道が人生の真の目的なのですから、どんなことをしていても、その道を歩むことは可能なのです。
スピリチュアリズムの視点では自殺はもっとも重い罪とみなされています。なぜなら自分が決めてきた「カリキュラムの放棄」だから、だそうです。人生に春夏秋冬はつきものです。どの季節も深く味わって自分の人生を錦織にして行きたいものです。「忍耐は苦しい。しかしその実は甘い」という言葉もあります。
「苦しいこと」から逃げないで、果実を味わうために生き抜きたいものです。(華)
10月のことば 2010年度 (己丑、年盤/八白中宮) 10月 (月盤/三碧) 10/8〜11/7
【良知良能(りょうちりょうのう)】
−佐藤一斎 言志録(一)−
乾(けん)は易(い)を以て知(つかさど)るとは良知なり。坤(こん)は簡を以て能(よ)くすとは、良能なり。乾坤(けんこん)は、太極に統(す)べらる。 知、能は一なり。
【訳 文】
天が万物を創始し、これを難なく司っているのは、人間の良知に当たる。 地が天の創始した万物を何の煩いなく生育しているのは、人間の良能にあたる。
ところで、天も地もその根元である太極に統べられているのであるから、 良知も良能も別々ではなく一つのものである。
【語 義】
・乾以易云々→易経、繋辞上伝(けいじじょうでん)にあり。乾は天であり、坤は地のことをいう。
・良知良能(りょうちりょうのう)→孟子によれば「人の学ばずして知る者は良知である。」
・太極→物の根元、天地万物の根拠の理。
【付 記】
良知良能とは『孟子』の「尽心上編」に見え、東洋(中国)哲学用語です。人が生まれながらにして持っている道徳的能力のことをいいます。尽心上編では性善説の立場から、人間には善を判断し(良知)、実行できる(良能)生得の能力が備わっている、としています。つまり経験や教育などをしなくても、人が生まれながらに持っている知恵や能力をいっています。
明の王陽明は、この良知を『大学』の「到知(ちち→良知を最大限に発動するの意)」の知と結びつけ、尽心上編の「良知」で解説した「到良知」を最善のものとして中心学説として唱えて、人間の本来的な徳性の完全な発揮を主張しました。
仏教では「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」といい、草木や国土のような心をもたないものでさえ、万物が悉く仏性が備わっている、と示しています。
その仏性は我々人間にも学んだり、教育されたりしなくても「本来が仏性」なのですから、道徳的に生きられるというのです。つまり、自らの善悪判断により外からの強制がなくても自発的に正しい行為ができる、ということです。
たとえば他者が喜ぶことをしたいとか、他者のために尽くしたい、他者の幸せを願ったり、人の不幸を望まないなどなどです。
道徳的に生きられる、というのは、慈悲のこころ(愛)で他のために尽くし、その慈悲行(愛)を実践する力、と置き換えてもいいのではないでしょうか?
お客さんの「おいしい」と喜ぶ顔が見たくて、料理を作ったり、農作物を作ったり、物作りすることも、みな、愛の実践行です。
このようなことから以下のように発展させると、本来、人に備わっているその慈悲と知恵とはつまるところ一体のもの・・・慈悲(愛)があるからもろもろの智慧が生じ、智慧は慈悲(愛)の実践には必要不可欠です。
人の良知良能を信頼し、教育とは本来、愛の実践であり、他者に愛がなければ人間育成はできないでしょう。教育関連に従事する者としてははとくに心したいものです。(華)
11月のことば 2010年度 (己丑、年盤/八白中宮) 11月 (月盤/二黒) 11/7〜12/7
【立志を尊ぶべし】
−佐藤一斎 言志録(一)−
緊(きび)しくこの志を立てて以て之を求めば、薪を搬(はこ)び水を運ぶと雖(いえど)も、亦(また)是れ学の在る所なり。況(いわん)や、書を読み理を窮(きわ)むるをや。志の立たざれば、終日読書に従事するとも、亦(また)唯だ是れ閑事(かんじ)のみ。故に学を為すは、志を立つるより尚(かみ)なるは莫(な)し。
【訳 文】
(聖賢たらんと)志を立て、これを求めれば、たとえ、薪を運び、水を運んでも、そこに学問の道はあって、真理を自得することができるものだ。まして、書物を読み、物事の道理を極めようと専念するからには、目的を達せないはずはない。しかし、志が立っていなければ一日中、本を読んでいても、それは無駄事に過ぎない。だから、学問をして、聖賢になろうとするには、志を立てるより大切なことはない。
【語 義】
・尚(かみ)→上(かみ)・ 崇 ・ 貴 などの意。
【付 記】
「言志録」では多く立志について述べられています。「立志」は極めて大切なことです。一生一事を成し遂げるには「志」をもって一事を明確にしておかなければただの絵に描いた餅のごとくになるでしょう。
何を為すのか、己れのミッションは何か、どんな人間になりたいのか、と「志」を立てることで自らを大きく変容させることができます。「志」があればこそ、たとえ現状はどうあれ、次第に変化成長させていけることは多くの先人が示しているとおりです。
佐藤一斎先生は学問仲間から尊敬をこめて『陽朱陰王』と呼ばれ、朱子学とともに陽明学にも造詣深く、佐久間象山・渡辺崋山等、3000人ともいわれる多くの弟子に影響を与えました。とくに幕末の尊王攘夷運動は陽明学から行動の重要さの影響を受けています。
大河ドラマ「龍馬が行く」でも登場してくる志士たち、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、もこの陽明学派に影響されました。坂本龍馬も江戸遊学中に、先述の佐久間象山に師事していて影響を受けたようです。
龍馬が立てた「志」は、ドラマ上でよく述べられておりますが、「この日本を笑顔で、仲良く暮らす国に変えたい」 ということでした。それが彼の一連の平和的交渉志向と行動を支え、無血で今日の日本の開化の一端となったのです。
この陽明学派の中心概念が行動学であったため革命運動(大塩平八郎の乱)などに身を呈する者もあったのですが、革命のような殺傷のない革新、つまり「維新」とするには、個々のさらに高い霊性と志気が必要です。学ぶ目的とは、究極の人生目的を明確にし、それに基づいた行動学が必要と思われます。
天下国家の祭りごと、つまり政治のような大事でなくても、個々人の一生の大事業を為すには「志をたて」、そして「一念、岩をも通す」の思いが大切です。
私が尊敬する「伊能忠敬」は、貧しい家に生まれ、伊能家に養子に入った後諸々の苦労の末、50歳を過ぎてから、ようやく念願の勉学機会を得ました。
そして江戸に赴き、天文・暦学・測量の勉強を始め、蝦夷地西北部の一部を除き、日本全国を徒歩で測量して周ったのです。当時の50歳といえば皺だらけの老人です。その熱烈な念願には驚嘆します。その願望に数々の運命のアヤが重なり、ついに20年近くかけて念願の日本地図「日本興地全図」の完成となりました。
まずは「立志」、そして継続の「意志」が大切なことを心したいと思うのです。(華)
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