2009年1月
『 年頭自警
一、 年頭まず自ら意気を新たにすべし
一、 年頭古き悔恨を棄つべし
一、 年頭決然帯事を一掃すべし
一、 年頭新たに一善事を発願すべし
一、 年頭新たに一佳書を読み始むべし 』
― 安岡正篤 ―
2009年初めのことばは、東洋思想研究家で陽明学の実践家である、安岡正篤氏のことばです。安岡氏は「平成」の元号の考案者としても知られていますが、人間としての生き方に多くの示唆を遺してくれています。昭和の政治家にも大きな精神的影響を与えてこられた人物のひとりです。
さて、「念頭自警」のはじめの三つをまとめてみますと、昨年までのことはいろいろあったにせよ、抱えこんだり引きずったりしないで、心のうえですべてきっぱりと捨て去って、新たな気持ち、新たな心意気で出発しなさい!と言われております。
新しく踏み出すときには過去と決別しないと進んでいきません。陶淵明の詩にあるように「人生別離たる」のとおり、さよならだけが人生です。なにごともずるずると引きずらないで潔く整理していきたいものです。
そうしたら次のふたつです。
今年新たに「ひとつ、何か善いことを実践し始めましょう」。一日一善を行うもよし、なにか一善を気長に繰り返すことでもよし、です。できれば他人に尽くすことができるなら、さらに自己の運もあがります。
またもうひとつは、読書尚友で「自分を高めてくれる良書をじっくり読み始めましょう」。古人の知恵に学ぶことは、歴史に学ぶことです。
これらを今年の計画に組み込んでみられてはいかがでしょう。
ところで、年頭にあたり皆さまはどのような年計を立てられましたでしょうか?新しい年を
迎えると何かワクワクとするものです。どのような人生の1ページが開かれていくの
でしょうか?
一年の計は元旦にあり、一日の計は朝にあり。計画がきちんと練られたものなら、あとは行動しながら現実にあわせ微調整すればよく、人生という有限の時間を、さらに有効に活用することができます。
ただ、立てた計画が、仕事や雑事をこなすものが中心になってはいないでしょうか?人生の最大の目的は「人間的成長」です。有名大学入学、優良企業に就職、良き伴侶との結婚などなどは単に人生途上の目標に過ぎません。自己成長させるためのプログラムも是非加えておきましょう。メンタルトレーナー的な存在を求めるのも良いかもしれません。
人生にはいろいろな困難が待ち受けております。その困難に遭遇したときに心がそのことによって大きくぶれずにすむためにも計画はしっかりと立てて、人生の究極の目的は何かと、と日ごろから肝に銘じておく必要があります。
2009年2月
『 聞くこと少なき人はかの犂(すき)をひく牛の如く、ただ老ゆ。
かれの肉は増せども、かれの智は増すことなし。』
−法句経 152−
今月は「いまをどう生きるのか」(松原泰道師と五木寛之氏の対談集)のなかから、みつけたことばをお届けしたいと思います。
「聞く」とは法(真理)、よい教えを聞き、また学ぶ、ということです。それまで分からなかったことが分かるようになり、明らかになってきますと、同時にまた不思議なことに「疑問」も増えてきます。さらに学びたい、という心が湧きあがり、精神が衰えないのです。それがないとただ牛のように智(心・精神)もなく、肉体が老朽していくだけです。
さて標記のことばは、釈尊が80歳を超えられての伝道布教のおり、弟子の阿難に、自分も年老いた、体も古い廃車のように革紐の助けによってやっと動いているのだと話されます。しかしながら「心ある人の法は老ゆることなし」ともいわれています。
つまり、心に法(真理)を具えている人は、身体は老いていっても、心は老いる(朽ちる)ことがないのです。法をよく聞いて、法をよく身につけている人は心が柔軟で素直ですから、老化しないのです。また互いに心的交流してその法を学びあっています。学び心を持つ人は精神がいつも新鮮だから老いていかないのです。
学ぶ、ということはむろん知識を得ることのみではありません。一生涯に自分の身に起きてくることすべてが学びといえます。だから法に照らし合わせて考察すれば、おのずから現実を受け入れ時期をまったり、機会をまったりできるのです。
法(真理)とは端的にいえば、諸行無常と諸法無我の真理です。「諸行無常」とは、すべてのことは変化し続けていくものだ、ということです。また「諸法無我」とは、宇宙のすべてのものごとが互いに繋がりあっているという世界観です。さらにそれらを悟れば、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)といい、そのふたつのことを心にストンと落とすだけでも、目の前の現象にやたら振り回されず、心はざわつかず安らぐものだ、ということです。それを三法印といいます。
たとえば、年老いて嘆いている人がいるとします。その人が、人間は必ず年老いて死んで行くものだ(諸行無常)、と深く覚ったとします。と、老いることを嘆く前に、自分のできることを「気力や目が確かなうちにしっかり学んでおこう」とか「健康的に老いる工夫をする」とか、いろいろと前向きな生きかたの姿勢に心が転換していくのです。これがよりよい生きかた、精神の若々しさにほかなりません。生きる、ということは即ち自分の人生の創意工夫だといえるかもしれません。(華)
2009年3月
『 己れに如かざる者を友とすること無(なか)れ 』
― 孔子 論語・学而第一 ―
今月、三月は出会いと別れの月ですが、とくに友との出会いは大切です。また三月には「新しく始まる」「発展する」などの意味があります。大学へ新入学された方、また就職困難時代に晴れて新入社員になられた方、あるいは再就職にこぎつけた方などいろいろですが、あらたな人間関係が始まる機会が多いものです。そのようなときに、大切な人生を織りなす「友を選ぶ」ことは極めて重要なことといえます。
標記のことばの大意は「自分が尊敬したり、感心したりする相手でないと付き合うことはしないほうが良い。」というものです。年齢の上下、環境の違いなどに関係なく自分が及ばない、と思う友との付き合いは自分の世界(視野)を拡げ、また自己成長を促す刺激を与えてくれるものです。むろん、相手からもそのように感じてもらうためにも「自分磨き」を怠らず、難しい資格や、さらに別の資格試験に挑戦していくことなども自分にとっても眼には見えない益があるものです。
ところで、人生という時間は有限です。安閑と流れていく時間はもったいない! ことです。ですから「付き合う人」は自分に良い意味での刺激を与えてくれる人と一応決めておかれてはいかがでしょう。
年上の人は「経験からの智慧に学ぶ」ことや「年を取ることそのもの」を考える刺激をくれます。若い人からは「知的好奇心」や「型にはまらない斬新な思考やアイデア」「行動力」など刺激を受けること大です。
同年の世代の人からは、「具体的な問題の超え方」などいろいろな考え方に刺激を受け、自分ならどうするか、と視点を決めやすくなります。畏友から同輩まで、「すべてが、吾が師」です。
暖かくなる今月はいろいろな場所にも顔を出され、新しい友人との素晴らしい人間関係が始まることをお祈りしています。
2009年4月
『再びすれば斯(ここ)に可なり 』
―孔子 論語・公冶長第五―
春四月、桜前線も日本列島をぐんぐん北上して、国土を桜色に染めていきます。どの花も美しいのですが、日本人にとって桜は精神性との結びつきもあってか格別に愛でられております。
江戸時代の有名な学者、本居宣長は「敷島のやまとごころを人とはば朝日ににほふやまざくら花」と詠んでおります。この歌の意味を云々する説は多々あり、どのように受け止めても、また感情移入しても構わないと思います。が、私としては、桜花がわずか二週間ほどの限られた期間「いま、ここ」を懸命に生き抜く姿に、憧憬と美学を感じるのです。つまり精一杯に自分のいのちを咲き切る桜花のようにありたい、と受け止めております。
「明日があるさ」という思いも時としては大切かも知れませんが、「明日はないのだ」という潔い心持ちで身辺を整えて生きることもまた清々しいものです。東京FM放送で小耳にはさんだのですが、キャンプ場でのキャンプファイアの燃え残しをしない、運動を推進している方が「残すという行為は、燃え残しにしろ、食べ残しにしろ汚いものです。」と仰っていたのが印象的でした。残す行為と、未練たらしいのは美しくないですね。
さて、本題の「再びすれば斯に可なり」ということばをどのように自分に活かすか、ということなのですが、思いつきだけでやりっぱなしをしない、ということだと思います。仕事も学問も試験も「二度あると思うな」という姿勢でつねに気を入れて臨むことが大切だと思うのです。
たとえば身近な手紙を書いたり、文章作成でも一度だけではなかなか見落としがちな、あるいは不完全なことも、再びそこで見直したり、検討しておくとよりよくまとまり、「見直しておけば良かった」と心を残さずきっぱりと前に進んでいけます。時間的な問題もありますが、完璧性を望むということでなく、ひとつひとつ丁寧にやっておけば過失を免れます。 四月に新入社したフレッシュマンの心得として参考にされてください。
2009年5月
『苟(まこと)に日に新たにせば、日々新たに、また日に新たなり』
―古代中国の殷の湯王・「大学」伝二章―
若葉の薫る美しい季節、緑はほんとうに人の心を癒します。若葉が日に日に色濃くなるのを眺めるのは目も休息を与えとても良いものです。
さて、冒頭の「日に新たに日々に新たに、また日に新たに」という言葉は禅語としても馴染み深く、暦やカレンダーでもよく見受けられます。古代中国伝説で最古といわれる夏王朝(紀元前21〜同16世紀)の桀王(ケツオウ)は暴悪な政治であったため、湯王(トウオウ)は夏王政を倒し、殷国(紀元前16世紀頃〜前11世紀頃)を創始し、以後600年ほど殷王朝は続きました。
その湯王は、意思の盥(たらい)に 『苟(まこと)に日に新たにせば、日々新たに、また日に新たなり』と彫み込んで、毎日、洗面や体を洗いながら自戒していたと伝えられています。刻々と情勢が変化する世の中で、今度はいつ倒されるとも限らない戦国時代となれば、日々安閑とした油断を自ら戒め、しかしまた不必要な怖れは自らを滅ぼすものとして、日々に生かされていることに、つまり日々新たに生まれ変わっている自分の三命(宿命・運命・使命)を厳然と受け止めていたのではないかと想像します。
禅的生活とは「いま、ここ」を懸命に生きる生活です。過去に心を置きすぎれば「後悔と愚痴」になり、また未来に心を置きすぎれば「不安と妄想」のとりこになりかねません。過去も未来も現実からは遠のいていきます。「いま、ここ」で起きていることに心を据えれば、それが余計な不安ももたずに未来にもつながっていくものです。
このことは誰でも頭の中にあり、知ってはいるのですがなかなか実際には難しいものです。生き方上手とは、このことがストンと腑に落ちることだと思います。
昨今は世界金融恐慌、新型インフルエンザ、雇用不安など、未来の明るさより暗さの方に心が向いてしまいがちですが、いま、できる努力をしていればいずれ必ず機会は訪れてくるものです。
また社会や社会を構成する個々人において、大きな革新をして変化・進歩をしていかなければなりません。その変化が必要な時、大切なことは、社会も個々人もこれまでのあり方をガラリとかえる革命的なことより、日々に少しずつ変化していきながらスムースに革新していく「維新的変化」のほうが理想的といえます。
日々に新たに、生まれ変わりながら、変革していきたいものです。
2009年6月
『学びて思わざれば即ち罔(くら)し。思いて学ばざれば即ち殆(あや)うし。』
―孔子「論語・為政第二」―
庭先のアジサイがほんのり色づき始めました。もう水無月、今年も6ヶ月目を迎え、後半はどのようになっていくのかが気になるところです。
アメリカのGM社の破産法申請など、世界的にもいろいろ厳しいニュースが続いています。中流意識層が中心だったこの30有余年、いまや低所得者層が増加の一途を辿る一方、高額所得者層も増加を辿っているそうです。中流が消失したこの所得の2極限化や金融不安時代の流れをみなさまはどのように考えておられるでしょうか? この大きな変化期、ぐっと腹に力を入れ、時代の波を見据えて乗り切らなくてはなりません。
さて、冒頭の 「学びて思わざれば即ち罔(くら)し。思いて学ばざれば即ち殆(あや)
うし。」という言葉は論語として皆さまにも馴染みの深いものです。専門家としての資格試験などを目指すときには、やはりこれは座右の銘として心にとどめておきたい言葉のひとつです。
専門家を目指すわけですから、底の浅いジェネラリストではなく、総合的、複合的な判断、多視点的にものごとを考えられるスペシャリストを目指していかなければ、当然有資格者となっても自然淘汰されてしまうでしょう。
学びは生涯のものです。資格試験に合格する、という目標は目的ではありません。合格した後からがさまざまに真の学びになっていきます。
知識を学んだだけでは専門家とは言えないものです。その知識をさらに実践を通しながら思索を重ね、さらに高度な専門知識と技術に仕立てていく必要があります。そのことが面白くて仕方がない、というのが専門家といえるのではないでしょうか?
とにもかくにも、先ずは第一に資格試験に合格し、さらに幅広く教養を高め、専門家としての倫理観に立ち、社会に役立つ人間として成長していくことがもっとも大切な学びとなっていくのではないでしょうか?
2009年7月
『浩然の気を養うべし。』
― 孟 子 ―
七月も中旬になればまもなく梅雨明けです。明けたらまた灼熱の太陽の猛暑に悩まされ続けます。常日頃、心身を養生して対処しないと暑邪に身体を傷め、夏バテや秋に体調を崩すもとになりますので十分にご留意ください。
さて、人生は荒波の海を遠泳していくようなもの、と言われますが、まさに人生の諸象には喜怒哀楽はつきものです。また「人生は苦なり」とお釈迦様が喝破しておられますが、「苦」はつきものなのだ、と悟れば「人生苦」から逃避しないで、しっかりとその「苦」を見つめて、どうすれば乗り越えられるのかを自他ともに励ましあいながら、考えていきましょう。
中国、斉の国に孟子が訪ねて行った時の話です。公孫丑という者が弟子入りしてきて孟子にこう訊ねました。
「もし、先生が斉の宰相になり、先生の説かれている道で政治を行えば、その責任の大きさに対し、多少の動揺はないのでしょうか?」
孟子は「四十を越してから、動揺はなくなった」と応じて、心を動揺させない方法をいろいろ語って聞かせました。
それには「浩然の気」を養うことが大切だと…。
ところでその浩然の気とは、何でしょうか? 天地にみなぎっている、万物の生命力や活力の源となる気のことです。きわめて大きく強く、正しいもので、この気を養えば天地に充満するほどになります。
しかし、天地意思に反して、正義や人道にはずれたことをするとしぼんでしまいます。
孟子は、この気はたくさんの「義(正しい行いを守り、人間の欲望と対立する概念)」が積み重なって生じるもので、羞悪の心(悪や利をむさぼりを恥じる心)が「義」の端であると説かれ、外部から取り入れることなどはできないのです。
これが「浩然の気」で、この気を養うことで潜在エネルギーが膨張してくるのです。
この気を養った人物は、表面は穏やかで物静かでも、ことにあたると粘りがあり、思わぬ実行力を備えているのです。物事にとらわれない、おおらかな心持をもった、リーダーには欠かせない要件、と心したいものです。 (華)
2009年8月
『生涯修行、臨終定年』
― 松原泰道(臨済宗妙心寺派龍源寺前住職) ―
八月は別名「葉月」といいます。暑さはあるものの太陽のエネルギーも次第に衰えはじめます。「葉月」とは樹木の葉もところどころ黄変が始まり、また初めて葉が落ち始めることに由来するそうです。諸行は無常なり‥です。
さて、私の心の師である「臨済宗妙心寺派、龍源寺前住職の松原泰道師」が先月7月29日午前にご逝去されました。享年103歳、これまで入院などしたことがなく、人生初めてのたった2日半の入院で、すばらしく大往生であったと伺っております。
師のご著書はいろいろ読ませて戴いており、その時々の生き方に示唆を与えて戴き、人生のお手本でもありました。
標記の「生涯修行、臨終定年」のことばは、101歳のときに出された、作家の五木寛之氏との対談集『いまをどういきるのか』に掲載されているのですが、そのことば通りに生涯を送られたそうです。
禅師はその対談集のなかで次のようにお話されています。
『人生はよく旅にたとえられますが、旅にあって力になるのは杖です。(中略)人生において杖の役割をするものが言葉だと思います。その言葉に心を込めて、私の言い方では、心のなかに床の間を設ける。これは「考える間を持とう」と言うことです。(中略)そのような尊い心の床の間に自分の杖となる言葉をひとつかけて、心の中でそれを読むのです‥。』と。
「生涯修行、臨終定年」はその杖言葉のひとつだそうです。101歳になられた和尚様には、もう座禅もできないし、草取りもできません。
いま、できる修行は「読む、書く、話す」の三つだけで、頼まれれば原稿も書くし、必要があれば法話も話される、それが「生涯修行、臨終定年」なのだそうです。
また佐藤一齋が言志四録のなかで「たとい視力や聴力が落ちても、見える限り、聞こえる限り、学を廃すべからず」と言われており、この言葉を糧に励んでいます、と述べられておりました。
そのようにイキイキと我々に接してくださるその一方で、何年も意識のない寝たきりの奥様をおいては逝けないと、普段はご本人も寝返りを打てないほど弱っていらしたにも関わらず、施設などにも預けられずに毎日愛しんで暮らしておられたそうです。
その奥様をつい3週間ほど前に亡くされました。その葬儀では車椅子に背筋をシャンと伸ばし、寄りかかりもせず気合に満ちて弔問客のひとりひとりに挨拶されていました。なんという清清しい生き方のカッコ良さ、ほんとうに憧れます。合掌。 (華)
2009年9月
『己の欲せざる所は人に施すなかれ』
− 孔子 論語 −
九月は雨が多いことから、別名「長雨月(ながめづき)」ともいいます。太陽のエネルギーは秋分の日を境にどんどん陰に傾いて、ひんやりとした冷気が漂いはじめ、万物が収斂し実を結ぶ準備に入っていきます。暑さも次第に引いて物事の思索や哲学には絶好のシーズン、ほんの少し哲学的時間を作ってみませんか?
さて、今月の心に響くことばは「己の欲せざる所は人に施すなかれ」です。 自分が決して望まないことを他者にもしないこと、という真にシンプルなことばです。 これを実践するには相手を思う「愛」と「想像力」が大切です。自分がされて嫌なことは相手もどのように感じるのだろうか、と相手の苦しみ、悲しみを想像すれば自分の言動を戒めざるを得ません。
人は概ね自分の思い通りにしたい、という欲求があるものですが、それを押し通そうとすれば当然ぶつかり合うことにもなります。それをどう折り合いをつけていけばいいでしょうか?自分がされたくないことを他者にしない、ということを発展的に考えていくと、「自利利他」(維摩経)という言葉を想起します。
自利利他とは、仏教のことばで本来は「自らの悟りのために修行することと他者の救済のために尽力することを共に行なうことが大乗の理想」とされているのですが、一般には「他者に利することがすなわち自分を利する」という意味に解釈されていることが多いようです。
たとえばボランティアなどで他者に尽くしていることが、すなわち自分が真に生かされている、ということになります。つまり自分を生かしたければ他人を幸せにする努力をすればよい、ということになるのではないでしょうか。
また「Win−Winの関係」 (『7つの習慣』 スティーブン・R・コヴィー著 キング・ベア出版) についても同様の意味があるようです。
その「Win-Win」の関係は一言でいえば、愛(他者を幸せにすること)の関係で、相手に愛をもって接するという考え方なのです。つまり「人を幸せにすることで、自分も幸せになれる」ということです。
本来、どのような人間関係においても(恋愛、友人、夫婦、親子、同僚などなど)共に幸せになれるはずのものです。互いに思いやりや愛のある「Win-Win」の考え方をぜひ習慣にしたいものです。
ところが自分中心な考えをしたり、損得勘定で、相手と争ったり、足を引っ張ったりすると、「Win-Winの関係」でなくなり、一方が不幸になればいずれそれが自分にはね返ってきて「Lose-Loseの関係」になり、互いに不幸な結果となってしまいます。
「自利利他」「Win-Winの関係」は「己の欲せざる所は人に施すなかれ」を逆説的にいったことばですが、人類全体にこのような態度が浸透していればかなり平和な穏やかな暮らしとなる、大切な智慧だと思うのですがいかがでしょう。
(華)
2009年10月
『The only limit to our realization of tomorrow will be our doubts of today.』
(今日の疑いが、明日の実現の唯一の障害となる。)
− フランクリン・ルーズベルト −
十月は月の美しい季節です。今年は3日が十五夜、4日が十六夜と名月を楽しまれた方もいらっしゃるかもしれません。
さて、今月の心に響く言葉は、アメリカの歴史上でただひとり4選を果たし、世界大恐慌や第二次世界大戦の最中に任期を勤めたルーズベルト大統領の言葉です。
日本を敗戦に追い込んだ敵国の大将でもありますが、ルーズベルトの評価は米国「リベラル」派から見ますと、 ニューディール政策をはじめ、 ケインズ福祉国家的政策の開始は「恐慌への対策を具体化したもの」として「はじめて本格的な貧困層対策に取り組んだ」大統領として知られ、評価されています。
その政策も、ルーズベルト大統領は39歳で病のために下半身が不自由の身となり、車椅子に頼る生活であったからこそ取り組めたのかもしれません。 こうした公私にわたる様々な困難を乗り越えて来た人生の智慧が彼の言葉の中にあります。
この言葉に含まれる「明日の可能性を信じ続ける意志」に、たいへん心を動かされます。明日を信じることは、先ずは自分を信じていることなのです。
私たちはともすれば困難に出会うと、こんなことになったのは「○○のせいだ、関係ないよ」と逃避したくなったり、「なんで俺にこんなことがふりかかるのだ」と恨んだり呪ったりしてマイナス思考の循環をしてしまいます。
しかし、人生のすべて生起してくる現象には「意味があるのだ」と信じて受け止めてみてはいかがでしよう。ルーズベルトは自分の障害を避けるのではなく、受け容れ、それをバネにしたからこそ諸政策に発展したといえるでしょう。
例えばすぐカッカと怒る人が苦手だ、という人がいたとします。「怒ることはいけないこと」として怒りを無意識に抑圧しているのかもしれません。
苦手だったり、嫌いな人物は「自分を映し出してくれる鏡だ」などと言われています。「怒り」はエネルギーに変換される質のもので、怒りを抑圧すると無気力やうつ感情になっていくことがあります。
これを「人生の意味」としてとらえ、「自分は怒る人をなぜ極端に嫌うのだろう」と、避けるだけでなく、あるがままの感情を受け入れてみるのです。
すると「怒り」を抑圧している意味ある自分が見えてくるかもしれません。
物の見方、考え方を変えるだけで「苦」というものの受け止め方も変わって生き方が楽になってくるようです。
このように、未来を組み立てていくのは「ありのまま受け入れる」ことと、必ず自分にとってプラスになるのだ、と「信じる力」が大切と思います。 (華)
2009年11月
『厚くすべき所の者に於いて薄くする者は、薄くせざるなし』
− 孟子・盡心上 −
11月は立冬過ぎると急に寒さも厳しくなったり、また小春日和の穏やかな日もあったりの変化の多い季節です。春もいきなり暖かくなりませんが、冬も行きつ戻りつしながら寒くなっていくのですね。
さて、今月の心に響く言葉の意味は、ほんとうは手厚くしなければならないところに、「そのような必要はない」と考える人は、すべてにおいて手薄くなりやすいものである、ということです。たとえば親子関係においても、自分の子供に愛情を注げない非情な人間は、まして他人や他人の子供になど優しくできないものです。
この言葉は、ふだん我々が何気なく他人と交際して感じ取れる、その人の人間性の一面を言い得ているのではないでしょうか? 人間は言葉より行動の方が真実を物語っています。言葉ではいろいろと言い繕いができるもので便利な反面、真実味に乏しいものです。相手の真実の心を知りたければじっくり行動を観察することが肝要に思います。
現代はとくに老若男女に問わず、自分にだけしか関心のない、愛(agape)の少ない人が多いように感じられるのは私だけでしょうか?
ところで、いったい幸福とは何でしょう?
愛(agape)がもっとも幸福感を高めてくれるものだと思いますが、物やお金に傾きすぎるように思います。お金や物はあっても不幸な人生を強いられることもあります。
世界経済恐慌もあるこれからの時代に、心豊かに暮らすためには、愛(agape)の思想で忘己利他の精神を強化することが、ひいては自分の幸福になるのではないでしょうか?
ちなみに友愛精神を謳った鳩山総理の理念は、民主党の「コンクリートから人へ」という政策として、地球や人に温かく優しく聞こえてきます。
多くの難題が重なる中、その言葉が真実となるよう、行動(政策実行)でどのように達成されていくのか厳しく見守りたいと思います。愛よりお金、という拝金主義時代が終焉しつつあり、新たに友愛時代の訪れを平成維新として期待を寄せている人々も多いのではないでしょうか? (華)
2009年12月
『志を立てよう』
− 松下幸之助翁 −
「光陰、矢の如し」でもう師走です。まだ暖かい日もありますが、これからはさらに北風が強くなり、雪も多くなります。冷えや乾燥から身を守り、経済の冷え込みで心まで冷え切らないように養生したいものです。
今月は先月に続き松下幸之助翁のことばを以下全文を紹介させて戴きます。
時代が混迷したときほど個々人の勇気ある「志」が大切に思われます。
家庭、社会、国家、世界へと良い地球にするためにも仕事でも思想でも
「志民」が多くなることを願うものです。
「志を立てよう」
本気になって、真剣に志を立てよう。
生命をかけるほどの思いで志を立てよう。
志を立てれば、事はもはや半ばは達せられたといってよい。
志を立てるのに、老いも若きもない。
そして志あるところ、老いも若きも道は必ずひらけるのである。
今までのさまざまの道程において、いくたびか志を立て、
いくたびか道を見失い、また挫折したこともあったであろう。
しかし、道がない、道がひらけぬというのは、その志になお弱きものが
あったからではなかろうか。
つまり、何か事をなしたいというその思いに、いま一つ欠けるところが
あったからではなかろうか。
過ぎ去ったことは、もはや言うまい。
かえらぬ月日にグチはもらすまい。
そして、今まで他に頼り、他をアテにする心があったとしたならば、
いさぎよくこれを払拭しよう。
大事なことは、みずからの志である。
みずからの態度である。
千万人といえども我ゆかんの烈々たる勇気である。
実行力である。
志を立てよう。
自分のためにも、他人のためにも、そしておたがいの国、日本のためにも。
(華)
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