今月の言葉 2009年分
1月のことば 2009年度 (己、年盤/九紫中宮)1月(月盤/六白)  1/5〜2/3
【親の身は我が身】
すべからく知るべし。親在(おやいま)すとき、親の身即ち吾が身なり。親没せしのち、吾が身即ち親の身なることを。即ちおのずから自ら愛する、の心を以て親を愛し、親を敬する心を以て自ら敬せざるを得ず。 佐藤一齋   言志耋録より

【訳文】
親が生存しているときは、親の身が自分の身であり、親がなくなったのちは、自分の身が親の身であることを知らなければならない。つまり、自分自らを愛する心で親を愛し、親を敬う心で自身自らを敬わなければならないのである。

【付記】
ここでは、内容とすこしずれるようですが、陽明学の「孝」の
思想の基幹というか基本的なことを取り上げてみたいと
思います。

「孝」とはむろん、 親孝行ということにつながっているのですが、親孝行にもいろいろあって上品(じょうぼん)、中品(ちゅうぼん)、下品(げぼん)とあります。親に金品などをプレゼントする、などは下品にあたります。最高の上品の親孝行とは、親から戴いたこの「我が身」を、この世でたったひとつの、この身体を慈しみ大切にすることである、と言われています。

今生に「いのち」を戴く、ということはただならぬことなのです。仏教では「願生」といって自らが願って、母の胎(はら)を借り、生まれてきているのです。

「きくち体操」の創始者の菊池和子さんは、たったひとつの自分の身体をないがしろにして生きている人が多い、と警告されています。自分の身体の声を聞かずにいると、ひざ、腰、痛い! 曲がらない! 歩けない! という身体に、長年かけて自らが、つくってしまっているの
です、と。筋力低下は生きる力、能力を低下させているという事実に我々は目を向けなければになりません。

『一生、この体で生き抜いていくわけですから、自分の体に意識を向けて、もっと愛情をかけてください。 そして体を動かし育て続ける作業をし続けてください。それは、自分自身を見据え、自分に立ち向かうことです。 すると当然のように精神(こころ)も育ってくるのです。そしてそれが「よりよく生きる」につながっていきます。』

とおっしゃっておられます。身体への執着ではなく、身体に愛情と関心をもって大切に育てていかなければ萎えてしまいます。日本は、世界ではじめて高齢化社会に突入しており、高齢社会を生き抜く身体、体力をつくる必要があります。

いま、少々年齢が若いからといって油断できません。ぶよぶよしてきているメタポ予備軍も数多くおられます。

そこで今年の目標のひとつは、からだづくりにチャレンジしてみませんか? ナイスボディをめざし、がんばって身体を鍛えていきましょう。そのからだづくりが粘り強い精神も育てるのです。親から戴いたたったひとつのかけがえのない身体を慈しむことが上品の親孝行にもなるし、親となる我が身の子らへの教育にもなるのですから。 (華)



2月のことば 2009年度(己丑,年盤/九紫中宮) 2月(月盤/五黄中宮) 2/4〜3/5
【志気に老少なし】
血気には老少有りて、志気には老少無し。老人の学を講ずるには、当(まさ)に益々志気を励まして、少壮の人に譲る可(べ)からずべし。少壮の人は春秋富む。仮令(たとい)今日学ばずとも、猶(な)お来日(らいじつ)の償うべき有る容(べ)し。老人には即ち真に来日無し。尤もまさに今日学ばずして来日有りと謂(い)うこと勿(なか)るべし。易に曰(い)える、「日昃(かたむ)くの離は、缶(ふ)を鼓(こ)して歌わざるときは即ち大耋(だいてつ)の嗟(なげき)あり」とは、此れを謂うなり。たまたま感ずるところ有り。書して以って自ら警(いまし)む。 佐藤一齋   言志後録より (川上正光 訳)

【訳文】
人間の体力から発する血気には青年と老年とは大きな違いがあるが、精神より迸(ほとば)しり出る志気の方には老年と青年の間に違いがない。だから、老人が勉学するには、ますます志気を励まして、青少年や壮年の人たちに負けてはならない。少壮の人たちは前途春秋に富んでいる。たとい、今日学ばずとも、これから先に償うべき年月があるであろう。しかし、老人にはほんとうにもう取り返す来日はない。

朱子の勧学の文に、「謂うこと勿れ、今日学ばずして来日ありと。謂うこと勿れ、今年学ばずして来年ありと。日月逝きぬ。歳、我と延びず、嗚呼、老いたり、是れ誰の過ちぞや。」

また易経の「離」の爻伝(こうでん)に、「九三は日昃(かたむ)く、これ離なり。缶(ほとぎ)を鼓(こ)して歌わざれば、即ち大耋(だいてつ)の嗟(なげき)あり。凶。」 とある。

この意味は人間は苦労ばかりして、一生を終わるのは遺憾な事であるから、缶を打って歌い楽しむことをしなかったら、徒(いたずら)に歳をとってしまったという嘆きをみるであろう。人生はその常を楽しむべきであるのに、これでは何の益もないことで愚の至りというべきである。まことに示唆するところの言葉である。

自分はたまたま感ずる処があり、ここに書いて、自ら警めるものである。 (一齋 66歳尽)

【付記】
いわゆる団塊の世代の中心年生まれの人たちが、今年ですべて60歳を超えることになります。その世代の人たち、そのジュニアの人たちには特に参考にして戴きたい言葉です。

この後録で一齋先生は66歳の感想のなかで「書は選び熟読すべし」と勧められています。一齋先生は20歳前後ころ、一生懸命に千古以来の書籍を読みつくしたいと願われました。が、30歳を過ぎた頃にこのやり方を後悔し、外にばかり思いを馳せることを戒めて、専ら内省的反省をされるようになってから、心に得るところあってこの方法は聖賢の学にそむかない、ということを覚(さと)られました。

歳をとり、若い時代に読んだ本も半分以上は忘れてしまい、ぼーっとして夢のようでした。少しばかり心に残っているものも、まばらで纏まっていません。そう考えていると、ますます半生を無用なことに費やしたと後悔され、書物はむやみに読んでよいものではなく、必ず、よく選択して熟読することが大事、と考えられました。 ただ肝要なことは、読書で得た知識を、一生涯において充分に応用することが大切なのだと。自分が失敗されたことを繰り返さないで欲しい、と述べられております。

一生の限られた時間、何が自分にとって必要な、得たい知識は何なのか、よくよく吟味してみることが大切です。そのことが自分の生き方を方向づけてくれます。論語の為政篇に「その為すところを視、その拠る所を観、その安ずる所を察す」ということばがあります。

一生にあてはめてみると「30歳以下はざっと世間を眺め視る時代。30歳から50歳ころまでにはやや意識を持って世間を観る時代。50歳から70歳に至るまでに内省思考するから、察の時代」と言われています。団塊世代はまさに「察」の時代の真っ只中です。知命、すなわち天命を知って楽しむ年頃といえます。さて、天命の自覚ができている人、どのくらいおられるでしょう?
もう歳だから、といって学ぶことを止めたら、ただの朽ち木にすぎません。多くの問題を抱えた日本の、世界の、地球の未来に思いを馳せ、より良き資を次世代に譲り渡したいものです。先の見えない、抑圧された時代だからこそ個々人の心が肝要と思います。

また、団塊ジュニアの「観」の時代の人たちは、深く世間というものを観察し、いま、未来にむけて何をすべきか、何ができるのか、熟考していこうではありませんか? ひとりひとりが国民として、また人間として考えること、すなわち哲学することが未来の日本を再構築していく力になるのだと信じてやみません。(華)



3月のことば 2009年度 (己丑、年盤/九紫中宮)  3月(月盤/四緑) 3/5〜4/4
【学問に卒業はない】

人は此の学に於いて、片時(へんじ)も忘る可(べ)からず。昼夜一串せよ。老少一串せよ。缶(ほとぎ)を鼓(こ)して歌うも亦(また)是れ学。晦(かい)に向こうて宴息するも亦是れ
学なり。
佐藤一齋   言志耋録より

【訳文】
人はこの道徳を修め、聖人(人格者)を志す学問をするからには、この目標をかたときも忘れてはいけない。昼も夜も、一つに貫くようにしなければならないし、若い時から、老人に至るまで、一貫しなければならない。缶(ほとぎ)を鳴らして歌い楽しむこともまたこれ学問である。夕方を迎えて安息することもまたこれ学問である。

【語義】
一串⇒一貫に同じ。
缶⇒極めて質素な楽器。もとは酒、水などをいれる土器のこと。
晦⇒夕方。

【付記】
「人は学問を修めようと志したら、かたときもこのことから気持が離れてはならない」ということは大切です。つまり、人生の究極の目的は「人格的成長」であり、人が人として完熟する、という目的のために、人生を学び続ける姿勢が必要だからです。朝から夜まで、若い時から年老いてゆくときも、また一日を終えて疲れたときはきちんと休むことも学びなのです。生活の中で終始一貫してすべてが学び、ということを忘れてはいけない、ということです。

それを忘れていると、目前で生起する現象にただただ振り回されてばかりで、損だとか、得だとか言っているうちに、人生が余計な心労や徒労に終わりかねません。是非とも心したいものです。
ご承知のように学問は、知識を得るための机上の学びに限りません。どんなところにも学びの種は転がっています。プロジェクトなどで頭をひねり、難しい問いに答えるだけのものでもありません。

たとえば、子供の単なる石けりのような遊びにも、いかにうまく目標地に入れるか、蹴る具合、蹴る位置、石の形、土地の傾斜、タイミングなどなど、脳をフル活用しをていきます。そこに創意工夫が生まれ、脳が活性化されて楽しくなってくるのです。これが年をとっても若々しくいられる、脳を錆びさせないコツといえます。

脳科学者の茂木健一郎氏が著書の「脳の活かす勉強法」で興味深いことを書いておられました。茂木氏は小学校入学以来、中学、高校と、学年はじめはいつも上部ではあるけれどトップではなかったそうです。それが学年末になると必ずトップになるのだそうです。親から「勉強しなさい」とは言われたことはなく、自ら勉強することが楽しくて仕方なかったらしいのです。それは、「学び方を学ぶ」「学び方がわかる」ことによって、得られた一種の快感だそうです。

人間の脳は「ある行動をとったあと、脳のなかで「報酬」を表す物質が放出されると強化する」という性質があるそうです。その「報酬」の物質は「ドーパミン」といわれるものです。その快感物質を得ると、喜びを実感した行動を繰り返したくなり、結果、その行動に熟練・熟達していくのだそうです。

報酬とは「達成感」「承認欲求が満たされる」「知識欲の満足」など人により違いますが、茂木氏は「新しい知識を得る」ことがなにものにも代えがたい報酬だったそうです。その脳をいかにして最大の喜びを与えるかが「勉強する」「学ぶ」工夫のノウハウになっていったそうです。

それと現代の脳科学の面からも「学習」の定義は非常に広く、脳内で神経細胞のつなぎ方が変わればそれがすべて「学習」だといえる、としています。人生の経験すべてが「学習」であるとも。つまり人間成長心理学的にいえば「自己成長」なのです。脳の特性を知って、自分の脳と上手につきあうことで学習そのものを楽しめるようになりたいものです。

最後に、楽しいからといってやり過ぎることは「過ぎたるは及ばざるが如し。」で、逆に頭が回転しなくなります。またドーパミンが放出されすぎ、頭が回りすぎて精神的に異常をきたした東大出身者もありますから、なにごともほとほどにされて「学び」に勤しまれてください。(華)



4月のことば 2009年度 (己丑、年盤/九紫中宮)  4月(月盤/三碧) 4/5〜5/4
【苦と楽】

人は苦楽無き能わず。唯だ君子の心は苦楽に安んじて、苦あれども苦を知らず。 小人の心は苦楽に累(わずら)わされて 楽あれども楽を知らず。
佐藤一齋   言志耋録より

【訳文】
人は誰でも苦楽がないということはあり得ない。ただ、立派な人物の心は苦楽に安んじて苦楽にかかわることがないから、苦があっても、苦しむことを知らない。ところが、小人の心は苦楽にわずらわされているから、楽があっても楽しむことを知らない。

【付記】
佐藤一齋先生のこの言葉に併せて、山岡鉄舟師の辞世の歌「苦しみを 転じて たのしみとなす 観自在」を想起し、師のまことに深い悟りの境地に、感銘と畏敬の念を覚えます。

「観自在」とは、般若心経の冒頭の句にもある「観自在菩薩」のこと、つまり観世音菩薩のことを表しています。その意味は、世の中の本質をしっかりと観て、何事にもとらわれない自由自在な心境である智慧、を強調しております。とらわれないで生きる、という心の軽さ、安楽さを表します。もともとは何もない「空」の世界、私たちが六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)に色メガネをつけるからいろいろ煩悩が生じてくるのだ、実相(あるがまま)をみれば一喜一憂することもなく心は平穏なものだ、と生死も越えられているのです。

さて、ご周知のように山岡鉄舟先生は、明治維新のハイライトといわれる江戸城無血開城の立役者であり、剣・禅・書の達人として明治維新後の日本で多くの人材に影響を与えました。そのなかでも明治天皇の教育係として十年間仕えられ、日本の近代化(特に、精神教育や文化)に多大な影響を与えられました。西郷隆盛をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させ、鉄舟先生に感銘を受けた西郷隆盛は、その後、自らも無欲を貫いたと言われています。鉄舟先生は重床のなか、座禅中での53歳のご逝去であられたそうです。その辞世の歌が「苦しみを 転じて たのしみとなす 観自在」なのです。

私が以前フランス語を学んでいたフランス人のA.Shimon先生は、山岡鉄舟先生の研究をされており、明治維新の三舟(高橋泥舟・勝海舟・山岡鉄舟)のうち、もっとも日本人として尊敬できる、と熱く語られていましたが、その無欲で潔い生き方は国境を超え、共感を呼び、感銘を与えるのだなあ、と感慨深いものがありました。

これからの時代の教育を考えるとき、個人の目標はそれぞれに達成しながらも、さらに「人生の最大目的」に向かうような人づくり教育が早急に必要です。 学校教育と併せて、地域教育、社会教育、リカレント教育、企業教育、インターネットサイト教育でも行われることが肝要だと思うのです。

いま世界の金融危機が叫ばれ、世界が大きく変わろうとしています。このような時代だからこそ、明治維新のときのように、彗星のごとく国を真に憂える人材が多く湧出して欲しいものです。いますべての教育機関に期待したいと思います。人づくりは国づくり、国の宝を創るのですから。

「一隅を照らす人、これ国宝なり」 (伝教大師最澄)(華)



5月のことば 2009年度 (己丑、年盤/九紫中宮)  5月(月盤/二黒) 5/5〜6/4
【自に厳、他に寛】
自ら責むること厳なる者は、人を責むることも亦厳なり。人を恕すること寛なる者は、自ら恕することも亦寛なり。みな一偏たるを免れず。君子は即ち躬(み)自ら厚うして、
薄く人を責む。佐藤一齋   言志耋録より

【訳文】
自分を責めることに厳しい人は、人を責めることも厳しい。他人を思いやることに寛容な人は、自分を思いやることも寛容である。これらはみな、厳なれば厳、寛なれば寛と一方に偏していることは免れない。立派な人間である君子は、自ら責めること厳で、他人を責めること寛である。

【付記】
論語、衛霊公(えいれいこう)篇に、「子曰く、躬(み)自ら厚うして、薄く人を責むれば、即ち怨に遠ざかるなり」とあります。 言志後録にも「春風接人、秋霜自粛」(春風(しゅんぷう)をもって人に接し、秋霜(しゅうそう)をもって自ら粛(つつし)む)と、同様な意味をもつ言葉があります。これもまたなかなか頭では分かっていても、いざ実践となると難しいものです。

人の心は弱いところがあり、都合の良いことは自分の手柄にして、都合の悪いことは他人にせいにしたりします。また自分のしでかした不都合なことは棚にあげ、他者の過ちはついついなじりたくなるものです。

ところが面白いことに、いっとき自分の都合の良かったことが、いつ、なんどき都合が悪くなるかも知れないのがこの世なのです。このような事例はゴマンとあり、事例には事欠きません。まさに「人間万事塞翁が馬」なのです。

真に精神が強くありたければ、自らの非は反省して謙虚に潔く受け止め、部下や他人が仕出かしたまずいことも大きな立場で寛容に受け止めていくように精進していれば、自ずと結果はでてくるものです。自らが他者を裁かないで、天に任せていると、不思議に相手は自業自得で相応の結果を受けているものです。「神は平等なり」、と思います。

現代は誰しも色々なストレスを抱えてイライラを募らせた生活をしています。今月の言葉は、そういった状況のなかで無意識に他者にストレス発散をして、不用意に他人に厳しくし過ぎて恨みを買うことのバカバカしさにも注意がこめられているのではないでしょうか?
君子、危うきことには近寄らず?…です。 (華)



6月のことば 2009年度 (己丑、年盤/九紫中宮)  6月(月盤/一白) 6/5〜7/6
【養生(ようじょう)の道】
養生の道、只だ自然に従うを得たりと為す。養生に意あれば即ち養生を得ず。之(これ)を蘭花(らんか)の香に譬(たと)う。嗅げば即ち来たらずして、嗅がざれば即ち来る。
佐藤一齋   言志後録より

【訳文】
養生の道は、ただ自然に任せておくがよい。もし、養生をしようとする意志があるとかえって養生にならない。たとえば、蘭の花のように、嗅げば匂ってこないもので、嗅がないでいれば自然と匂ってくるようなものである。

【語義】
養生→心身を存養する。

【付記】
『貝原益軒の「養生訓」はつとに有名ですが、これに類するものはかなりたくさんあり、まさに枚挙にいとまがないほどです。

しかし、養生の極意を一言でいうならば、「心、平らかなれば、寿(いのち)ながし。(白楽天)」

どうしたらこの「Perfect Peace of Mind」を得られるのだろうか、これが大問題なのである、と川上氏は述べています。』

さて六月になると本州などは入梅となり、気象の影響も受けて、心身の健康も不調になりやすくなります。特にこの梅雨期間に日本人的体質として水分が溜まりやすくなり、気も停滞しています。とくに日ごろから冷えのある体質の人はむくみなどが出やすくなり、胃腸の活動が低下します。

養生については昔からいろいろ「べからず集」が多いのですが、しかし、これは三因制宜(さんいんせいぎ)といって、つまり時(季節)、場(地域)、人(個々の体質など)3つに応じてまったく処方が異なり、経過も変わってくるので安易に一般化は出来ないものです。

現代は情報が氾濫していて、インターネットを検索するといろいろ出てきます。が、それらに三因を考慮せず鵜呑みにはできないことも多々あります。

冷えているから、といってむやみに暖める食材、カラシ、しょうが、高麗人参などを摂取しても決して快方に向かわない場合もあります。カラシがアレルギーになったり、人参が体質に合わないので逆にむくんだり、むかつき覚えたりと思わぬ結果となるようなご経験をお持ちではないでしょうか?

そういうことからしてみると、無意識に何かしら食べたくなるものを食べてみる、とか、やたらに眠くて仕方ないときや、やる気が出ないときなどは余計なコントロールをしないで自然に任せて、ゆっくり気の済むまで寝たほうが良いようです。多くの人々は自然治癒力を備わっておりますから、自己のバランスを自然にとっていけるようです。今月のこの言葉には、心にも、身体にも構いすぎはかえって治癒力を低めてしまうと戒めているようです。

「病は気から」といいますが、実は「気」が停滞すると血液の巡りも悪くなるし、体内の水分も代謝が落ちてきます。病は気持ちのもちよう、という意味だけでなく「気」が血も水分も動かしている、ことに留意していただきたいと思います。

「気」を補うには規則正しい生活、そして日々の食事食養も大切です。また昼と夜・静と動といったような陰陽のバランスが整ってこそ、「元気の素」となります。「快眠、快食、快便」でこの梅雨を、またこの時代を乗り切りましょう。(華)



7月のことば 2009年度 (己丑、年盤/九紫中宮)  7月(月盤/九紫) 7/7〜8/6
【敬六則  その三】
一箇(いっこ)の敬(けい)は、許多(きょた)の聡明を生ず。周公曰く、汝其れ敬して、百辟(ひゃくえき)の享(きょう)を識り、亦其の不享(ふきょう)の有るを識れと。既にすでに道破せり 。
佐藤一齋   言志後録より

【訳文】
一個の「敬」は人を非常に聡明にする。昔、周公が(成王に)「汝は常につつしみて、諸侯が持ってくる幣物(へいぶつ)を享けるべきか、享けざるべきかを知らるるがよい」といったが、これは誠があって来た者と、誠がなくて来た者とを、敬の一字で聡明に区別すべきだといったことである。

【語義】
周公→名は旦、周の文王の子。武王の弟で、武王を助けて天下を平定し、成王(武王の子)を助けて礼楽制度を定めた人。
百辟→諸侯、辟は君。
享→朝享、上に奉る幣物。

【付記】
「敬」は程朱学でもっとも重んじられ、「自分に対しては慎み、相手に対しては敬う」というものです。また、「敬」は、くだらない考えを起こさないこととされ、くだらない考えが起きないのが「誠」である、とされています。

今月のことばは、その「敬」についての六カ条のうちの第三に述べられたものです。それについて佐藤一齋先生の研究者として知られている、神渡良平氏の「言志四緑を読む」に感銘した文がありましたので、少々長くなりますがご紹介いたします。

「自分を慎み、他の魂に対し、敬し、尊ぶ心をもっていれば、その魂の成長のために手を貸したいと思うのは人情である。魂の成長を一番促進させるものは自信であり、自信を持たせるものは、ほめられることである。

世界的な神経医学の権威、元京都大学総長の平沢興は、ほめることが、いかにその人の情熱に火をつけるかをご自分の小学校時代の経験をひいて次のように話されている。

『秀才に程遠い私が今日あるのは、ほかならぬ小学校の担任の先生のおかげです。子供のころ、新潟県の片田舎から、新潟市内の小学校に転校しました。ところが、最初の習字の授業で先生がたいへん褒めてくださったのです。『新潟市の小学校にもこんなにうまい字を書く者は居らんぞ』と言いながら、教室の壁に貼られました。そんなことが私に測り知れない刺激となりました。 
大切なことは、励ますということです。情熱に火をつける、ということです』と。

平沢先生は専門分野において世界的権威であり、仏教に対しても深い境地に達していきつつ、後進の指導は求道の指導でもありました。たとえばこんな言葉があります。

『自分を拝む。その自分は無限の可能性を持っており、素晴らしい想像力、かけがえのない霊性(心)を持っておる。このように尊い自分である』と…。」

いかがでしょうか? 自分の霊性に対して敬いを持つ気持ちが、同時に相手の霊性にも手を合わせ、敬えるようになってきます。

一箇(いっこ)の敬(けい)は、許多(きょた)の聡明を生ず。

敬の心は、人を聡明にしてくれます。自分を拝み、他人さまも拝める、このようになりたいものです。先述にもありましたように、相手をほめて自信をつけさせることが魂の成長を促進し、自分も他者も育てることがかなうのです。

人間関係を構築するコーチング技術の基本も「承認して褒めること」です。まずは、自分や自分の周りにいる人たちをどれだけ「敬」しているでしょうか、また、ほめているでしょうか、自問されてみてください。 そしてさらに実践を重ねていきたいものです。    (華)



8月のことば 2009年度 (己丑、年盤/八白中宮) 8月(月盤/九紫)  8/6〜9/6
【学は一生の大事】
少にして学べば、即ち壮にして為すこと有り。
壮にして学べば、即ち老いて衰えず。
老いて学べば、即ち死して朽ちず。 佐藤一齋   言志晩録より

【訳文】
少年時代に学んでおけば壮年になってそれが役に立ち、何事か為すことができる。壮年のときに学んでおけば、老年になっても気力の衰えることがない。老年になってからも学んでいれば、見識も高くなり、より社会に貢献できるから死んでもその名が朽ちることはない。

【語義】
●少→少年、若いとき。
●壮→30〜40歳代。
●有為→役にたつ。

【付記】
この一条はたいへんよく知られていて、入学式、入講式の挨拶などにもよく引用されていますのでご存知の方が多いのでは、と思います。

この言葉と併せて想い起こされるのが、福沢諭吉著の『学問のすゝめ』の冒頭にある「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」と四民平等を的確に表現された言葉です。しかしながら、現実社会を見渡せば、たいへんな貧富の差、地位・身分の差、教育格差や賢愚の差があります。

この現状を平等思想からみると「なぜ?」と思われるのではないでしょうか?福沢先生は「天は富貴を人に与えずしてこれをその人の働きに与うるものなり」のことわざを引用されて、つぎのように述べられています。

『人間には生れながらにして貴賎貧富の差別はないのである。天は生まれながらの人に富貴を与うるのでなく、その人の働きに与うるのである、と。

そして誰でも自らの働きによって富貴が得られる機会において、平等なのである。では、現実社会における貧富、地位・身分の差、賢愚などは何から生じるのか? その理由は明白である。
「学ぶと学ばざる」とによる差である。学問に励み物事をよく知る者は貴人、富人となり、無学な者は貧人、下人となる、と。』

さて、「学ぶ」ということの意味もさらに深めて考える必要があります。単に学べば人生の勝ち組になり豊かに過ごせる、というような現代的な短絡思考に陥るのははなはだ危険だと思います。 死んでも朽ちない人間にはどうすればなれるのでしょう? 以下、気になる引用文をご紹介します。

月刊誌『知致』に、ある新聞の読者欄に載っていたという次のような文が紹介されていた。

「自分の両親は朝から晩まで一生懸命に働いたが、暮らしは貧窮のどん底だった。自分は子どものころ、両親がこんなに働いても貧しいのは、きっと世の中、つまり社会の仕組みが悪いからだ、と思っていた。やがて、自分は親元を離れ、結婚して家庭を持ち、子どもも生れた。自分は毎年、両親への御歳暮と御中元を欠かさなかった。しかし、口頭でも、手紙でも、両親から一度もお礼の返事をもらったことはない。いま自分は思う。両親があんなに働いても貧乏から逃れられなかったのは、決して世の中が悪いのではなく、両親が人間的に未熟だったからだ、と」

…この投書以上に刺激を受けたものはない。腹の底まで響く鐘の音を全身に浴びたように震えた。…両親は人間的に未熟であったからだ、という。厳しい文言であるが、それ以外に理由はあるまい。…しかし、この両親は「未熟」ではないと思う。あと何十年、生きても成就するということは決してない、それだけの者であったと思う。人間という生きものは、なんでも見るし、なんでも聞き、そして多くのことを経験するが、そこから掴み、学び、成長の糧にできる者は、ある天性の持主だけである。それにしても、感謝の気持ちというものは露ほども持ちあわせず、したがって他者に対してあたたかい手を差し延べることも知らず、多分、身のまわりの整理整頓すらできなかったであろう両親の下に生れ、育ちながら、投稿者はなぜ、かくも深遠なる哲理を身につけることができたのであろうか。
…(中村勝範先生(平成国際大学学長、慶應義塾大学名誉教授)の個人誌『而今』より引用)

さて、この投書を通して多様な反応があると思いますが、あなたはどのように学び、お考えでしょう? 

「学び」とはいくら知識や技能といった才能があっても、知・情・意・身のバランスのとれた人格が伴なわなければ、学問がある、とはいえないでしょう。  競争心や思い上がりばかり強く、自己洞察力のない自己中心的な人物も多いように思います。真の意味で「学び」が身についてきた証には、他者に対する無言の影響力‥『気品』という人品の気が欠かせないと思うのですがいかがでしょうか。(華)



9月のことば 2009年度 (己丑、年盤/九紫中宮) 9月(月盤/七赤)  9/7〜10/8
【大成するために学問をはじめるべし】
凡そ学を為すの初めは、必ず大人(たいじん)たらんと欲するの志を立てて、
然(しか)る後に、書は読む可(べ)きなり、然(しか)らずして徒(いたずら)に
聞見(ぶんけん)を貪るのみならば、即ちあるいは恐(おそ)る、
傲(おごり)を長じ非を飾らんことを。
謂わゆる「寇(こう)に兵を仮(か)し、盗(とう)に糧を資するなり。」 憂う可(べ)し。
佐藤一齋   言志耋録より
【訳文】
学問を始めるには、必ず立派な人物になろうとする志を立て、それから書物を読むべきである。そうでなくて、ただいたずらに、自己の見聞を広め、知識を増すためにのみ学問をすると、その結果は傲慢な人間になったり、悪事をごまかすためになったりする心配がある。こういうことであれば、「敵に武器を貸し、盗人に食物を与える」という類であって、実に恐るべきことである。

【語義】
●大人→偉大な人物。
●寇に兵を云々→『史記』李斯(りし)伝の語。

【付記】
およそ学問には二つあり、ひとつは形而下学であり、ひとつは形而上学という哲学です。佐藤一齋先生が大人(たいじん)になる志を持て、というのは人格的に完成する(大成する)という大志で「人格形成の学問」のことをいいます。

人格形成とは目に見えるものだけでなく、むしろ見えないものの方こそ大切にするという姿勢をもつ生き方で形成される、のだと思います。見えるものは論理的に納得しやすいので「ことの本質」を見失ってしまうのです。ことの本質はたいてい見えないものなのです。

戦後の日本は、このもっとも大切な学問への志向性が陰をひそめて、「何のために生きるのか?」「どう生きるのか?」などの哲学がない世相になりました。お金や小さな名誉、利権など求める個人が、世俗的な処世術ばかり求めて、軽佻浮薄の輩となってしまったようです。

現代人の多くは「成功する」というイメージが、経済や地位、名誉など人にわかりやすい、見えやすいものを得ることだという錯覚、誤解があります。実はそのような他者からの評価などは一瞬にして失うことも多々あるのです。人生に満足感が残るのは「自分が何を大切にして、どう生きたのか」という自己評価によるものです。他者と比較して競争心ばかり募らせた人は自己評価が低いので、空しく寂しい人生になります。

戦後、人々が求めたのは、猛勉強して著名な大学を出れば良い仕事に就け、良い結婚をし、より物質的に豊かに人生を送れる、といったような人生の目標でした。ゆえに、人間にとって最も大切な「精神」をおろそかにしているので、目先は利くのだけど目に見えにくいところには心が届かない、自己は主張するが、全体の幸福などには心が馳せない、ということになるのです。

経済、教育界はもちろん、医界、政界、法界などでも人倫にもとる行為が数多く報道され暗澹たる気分にさせられます。個人的欲望をコントロールできなくなっているからです。人生において「何のために学ぶのか?」 の原点に立ち戻りたいものです。また教育の目的とはといえば、まずは欲望調御がなにより大切なのです。それを欠いた幸福論や平和論は砂上の楼閣のようなものです。欲を少なく、徳を深く、という実践をしたいものです。

さて、今夏、民意が反映して政権交代という機が訪れました。ここで心したいのは政治の変化、変容を相手に求めるだけでなく、ぜひ我々ひとりひとりの精神も大きく成長変化させていきたいもの、と思うのです。具体的には自己中心的な考えやものの見方を改め、利己主義、功利主義に陥らないことです。そしてそれぞれが自分の欲望を抑制する「忍耐力」を養うことです。

仏教のことばに「諸苦の所因は貪欲これ本なり」というのがあります。自分の立場ばかり主張し、相手の立場を認めない態度が争いの原因となります。貪欲がすべての悩みの根源だというのです。それを教えるのが教育です。そして学びです。

およそ現代日本の教育は、家庭も学校も魂の抜けた教育、といえるのかもしれません。人間の魂(精神)を育む、という場になっていないのです。人間にとって最も大切な「精神を養う」ことをおろそかにしているので、損か得かの目先は利くのだけど、目に見えにくいところには心が届かなくなっているのです。自己主張はするが、全体の幸福などには心が馳せない、ということになるのです。

つまり、見えるものだけを対象とした、物質的な繁栄を目標(たとえば良い学校を出て高収入を得、物質的に豊かに暮らすなどなど)としたものです。動物にはない、人間の欲望には「もっともっと」と際限がありません。学び方を間違った大志のない、底の浅い人間は確固とした自分というものがありません。ゆえに周囲の状況に簡単に左右されてしまい、何を大切にして生きるのか、というライフスタンスが確立できにくいのです。

いまや全世界でCHANGE(変化)の波が大きくうねり始めていますが、「どのように世界が変わるのか」というだけではなく、ひとりひとりが主体的に自らが「目に見えないもの(世界)に心を馳せられる」ように変容させていくことが重要と思います。目に見えないもの(世界)を見るには想像力が必要です。いじめをしたら相手の心身の痛みを想像できる、あるいは自分の会社の利益のために有害な廃液を垂れ流したら他人への健康や環境への影響が想像できる、とかです。

自分の住む国土や社会を常寂光土化(関係調和のとれた平和境をめざす)を目的として、大きな視野をもった人間に成長するために学ぶのだ、という決意をあらたにしていきたいものです。 (華)



10月のことば 2009年度 (己丑、年盤/九紫中宮) 10月(月盤/六白)  10/8〜11/6
【人心の霊とは】
人心の霊(れい)なるは太陽の如く然なり。但だ(ただ)、克伐怨欲(こくばつえんよく)、雲霧のごとく四塞(しそく)すれば、此の霊烏(いず)くにか在る。故に誠意の工夫は、雲霧を掃いて白日を仰ぐより先(せん)なるは莫(な)し。凡そ学を為すの要は、此れよりして基(もとい)を起こす。故に曰く「誠の物の終始なり」と。
佐藤一齋   言志耋録より
【訳文】
人の心の霊明な姿は、ちょうど太陽が照り輝いているのに似ている。
ただ、克〔こく→人に勝つことを好む〕、伐〔ばつ→自ら功をほこる〕、怨〔えん→忿恨(ふんこん→いかりとうらみのこと)〕、欲〔貪欲〕の四悪徳が心中に起こると、雲や霧が生じて四方をふさぎ、太陽が見えなくなるように、この心霊がどこにあるか判らなくなってしまう。
だから、誠意をもって向上に努め、この雲霧を払いのけて照り輝く太陽、即ち心の霊光を仰ぎ見ることが何より先決である。
凡そ学を為すの要点は、これより基礎を築き上げることである。
故に『中庸』にも、「一切は誠に始まり、誠に終わる。誠は一切の根元であり、誠がなければ、そこには何もありえない」とある。

【語義】
●克伐怨欲(こくばつえんよく)→『論語』憲問篇にある。言志録〔1〕217条参照。
●四塞(しそく)→あたり一面をふさぐ。
●誠者云々→『中庸』第25章に「誠は物の終始なり。誠あらざれぱ゛物なし。」

【付記】
佐藤一齋先生と同じ陽明学の吉田松陰先生の言葉に「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」 というのがあります。つまり、至誠をもって対すれば動かすことができないものはない、ということです。

他者に対して、親切にして欺かないこと、また偽りや飾りのない情で接することが、相手の心を動かす、ということです。日々の暮らしの中で自分の心と対峙したとき、曇りや霧はないか、と吟味してみたいものです。

至誠に生きる、ということは雲霧 (克伐怨欲)をはらって生きるということで、天に恥じるような心を生じさせない強い意志が大切だと思うのです。それが人生の学びにおおいに大切だと説かれています。その雲霧である克伐怨欲(こくばつえんよく)をどのようにしたら克服できるでしょうか?

@ → むやみに自他を比較して優越感を感じたり、自己卑下したりしないことです。夫々が、かけがえのないたった一人の自分なのです。

ご周知のとおり宇宙の生物は多様性に富んでいます。そのなかの人間はまたひとりひとりの個性が豊かであり、その個性は尊ばれなければなりません。人間は競争心から本来、比較のしようがないのに、おろかにも比較する過ちを犯してしまいます。実相(本来の自己)を見つめましょう。

A → むやみに自分の手柄や功績を自慢しないことです。自信のなさの裏返しかもしれません。或は自己顕示欲が強いだけかもしれません。

人は必要以上に「他者から認められたい」という欲求をもつことがあります。それが満たされないとフラストレーションが増幅し、神経症や精神病に陥ることさえあるのです。しかし、実は自分で自分を認めてあげられない、から他者を必要として承認や受容を得ることとなります。先ずは自らが自分自身に対して「お前はお前で良い!」と認めてあげましょう。

B → 怒りや恨みを抱きやすいのは、人間性が未熟で自己中心だからです。日常のささやかな事にも感謝のこころを育てましょう。

すぐに他者の悪口を言う人がいます。自己評価が低いため、自分に自信がなく、性根が競争心強く、慈悲心の少ない人です。そういう人は、自己洞察の浅い人が多いのです。 なぜなら自己中心な見方をしてしまうので本当の自分が客観的に見えにくいのです。ですから逆に他者からの評価に敏感になるのです。賞賛したり承認してくれる他者が必要になるのです。それを愛情などと勘違いする人もあります。
また年齢、性別、学歴などには関係なく他者依存的な人は存在しています。世界の目を気にし過ぎる日本国もなんとなくこの構図かな、と思うのですが…。

C → 仏教に出てくる「諸苦の諸因は、貪欲これ本なり」の通りです。物欲、金銭欲、性欲、名誉欲、食欲… 、あっても構わないのです。しかし、過ぎたる欲(貪欲)が、わが身を滅ぼすと心得ましょう。

欲はうまく使えば、いい意味での成長発展にはなります。いわゆる「人生で成功する」などは欲望を機軸にしているので、このような意味に使われているようです。

ところで「過ぎたる欲」とは、自分にとってどの程度なのかが、なかなか判らないので
困ります。
私はそのような時には、死〔人生の有限性〕を意識して今日一日生きるのに最低限、必要なものは何か?と自問してみるのです。笑えるほど何も必要ないことが多くなりました。

死を意識することは大変意義のあることです。あの世に持っていけるものは殆ど何もありません。極端に言えば、夢世のような今生に、いくら得たとしても自分で持っていけるものではありませんし、子孫に残してもそれが真の幸福に結びつくかどうかは判りません。
物欲、金欲、名誉欲などはほとんど見栄、外聞に踊らされて肥大しているのでは
ないでしょうか?

誰しも「欲にはきりがない」と知っています。けれど、貪欲をコントロールする勇気と決意が不足しているのです。苦しみに翻弄されないうちに、賢者は欲望の心をエコしてみませんか…。すがすがしく輝いて賢く生きるために。(華)



11月のことば 2009年度 (己丑、年盤/九紫中宮) 11月(月盤/五黄)  11/7〜12/6
【他山の石、以って玉を磨く可し】
人我れに同じき者有り。与(とも)に交(まじわ)る可(べ)けれども、而(しか)も其の益を受くることはなはだ多からず。我れに同じからざる者有り。亦(また)与(とも)に交るべけれど、而も其の益は即ち少なきにあらず。「他山の石、以って玉を磨く可し」とは、即ち是れなり。
佐藤一齋   言志耋録より
【訳文】
世間には性格や趣味が自分と同じ人がいる。こういう人と交際するのは勿論良いことだが、大して益を受けることはないものだ。反対に、自分とは性格、趣味の異なった人がいる。こういう人とも交際するのは良いことで、しかも交際すると、自分のためになることが多いものだ。「他山の粗石でも、我が玉を磨くには十分に役に立つものだ」とは、こういうことを言ったものである。

【語義】
●他山之石云々(たざんのいしうんぬん) → 『詩経』小雅、鶴鳴篇にあることば。
君子は誰をみても自分の人格を磨く助けになるという喩え。

【付記】

今月のこの言葉も普く知られているものですが、よく迷いがちなのが「他山の石、以って玉を磨く可し」と「他山の石、以って玉を攻(おさ)むべし」のどちらが正しいのか、ということです。高校時代の漢文では「攻むべし」と学んでいますが、訳文がやや古語的になり現代になじまなくなっており、「磨く可し」のほうが理解しやすくなっているようです。どちらも正しいようです。

上記の川上氏の訳文には「他山の粗石でも、我が玉を磨くには十分に役に立つものだ」とありますが、この文脈ですと、自分のためにだけ他者を利用するというような印象に受け取られがちで、道具的人間関係のように感じてしまうかなと少々危惧します。言葉の意味の奥を感じ取りたいものです。

これをいま少し解りやすく表しますと、「他(よそ)の山から出た粗悪な石でさえも自分の玉を磨くのに活用できるの意から、他人のたわいないつまらぬ役に立たない言行さえも自分の人格を磨き育む助けとなりうる」ことのたとえ
です。

さて、この言葉から連想されるのが、松下電器産業創業者の松下幸之助氏の次のことばです。

「学ぶ心さえあれば、万物すべてこれわが師である。
語らぬ木石、流れる雲、無心の幼児、先輩の厳しい叱責、後輩の純情な忠言、つまりは広いこの宇宙、この人間の長い歴史、どんなに小さなことにでも、どんなに古いことにでも、宇宙の摂理、自然の理法が密かに脈づいているのである」

要は人生の幸不幸を言うならば、「学び方」につきるといえるでしょう。
松下翁の言葉のように、学ぶ気持ちがあれば人生の失敗や失態など生起する一切が自分の玉を磨くありがたい材料ではないでしょうか?

併せて連想する思い出があります。かなり以前に、観梅を兼ね、青梅市にある「吉川英治記念館」を訪ねたことがありました。
彼は「宮本武蔵」「太閤記」「新・平家物語」「私本太平記」をはじめ、長編約80編、短編約180編という膨大な数の小説を執筆し、国民文学作家と多くの人に親しまれ、1962年に永眠しました。

吉川氏は父親の事業の失敗で、小学校卒業目前で中退後、職業を転々とする波瀾の少年期を送ることとなります。22歳で講談社の懸賞小説応募し「江ノ島物語」が一等になり、以後の小説家としての歩みを始めたのです。

その記念館で出会った、深く心に響いた言葉がふたつありました。
ひとつは、「すべてがわが師」の言葉で、本人揮毫の色紙でした。

もうひとつは「人生四十から」という言葉です。これは吉川氏が住んでいたこの青梅の自宅書斎の庭によく四十雀(しじゅうから)が飛んできたそうです。その四十雀の鳴き声が「(人生は)四十から」と言うように聞こえたそうです。

そのとき40歳を迎えようとしていた私は、次々に襲う人生苦に負けそうになる心を強く励まされた気がしました。「そうか、人生起きてくる困難もすべて自分を磨くためなのだ、これまでの人生は与えられたテキストで、40歳からは自分のシナリオで生きていこう」と強く思えた言葉との出会いでした。

省みますと、自分と考え方の違う相手の言うことを非難したり、拒否したい気持ちが湧いてきたり、また相手を侮ったりすることがあります。そういうときこそ、自分の器量を試されているのだという心の余裕が必要と思います。
たとえ反目しあってもその相手の考えにも必ず真理があるのだと理解すれば新たな視野が広がってくるのではないでしょうか。 (華)



12月のことば 2009年度 (己丑、年盤/九紫中宮) 12月(月盤/四緑) 12/7〜1/4
【事物の見聞は心でせよ】
視るに目を以ってすれば即(すなわ)ち暗く、視るに心を以ってすれば即ち明(あきらか)なり。聴くに耳を以ってすれば即ち惑い、聴くに心を以ってすれば即ち聡なり。言動も亦(また)同一理(どういつり)なり。

佐藤一齋   言志耋録より
【訳文】
目や耳だけで事物を見聞すると、事物の真相を欠くということで、
真相を知るためには心を用いなければならない。言動を察するについても同一理である。

【付記】

今月のこの言葉と同様の趣旨の言葉が
『大学』(伝之七章)にあります。

「心不在焉、視而不見、聽而不聞、食而不知其味。
此謂脩身在正其心。」

(心ここにあらざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、
食(くら)えどもその味を知らず。
これを、身を修むるはその心を正すにあり。)

いずれの言葉も、事象を波立った心で表面的に捉えているだけでは、
ことの真相はつかめないものだ、我執をとり、心を穏やかにし、
静かに澄ましてことの本質を視たり、聴いたりしなさい、ということを言われたものです。

同じものごとを視たり聴いたりしても本物と言われる人は、必ず事象の奥にある本質を
観察し見抜いて、「かくすればかくなる」とあるべきようを捉えておられます。
つまり、目先の枝葉現象にあくせくせず、目に見えないところにある大きな道理に
心を向けているからです。

では「これを、身を修むるはその心を正すにあり。」ということはどのようにすれば
良いのでしょうか?
それは、この世の実相(真理)をよく観察する、或は直感するという修練のことだと
思います。
実相すなわち真理は、客観的に見ようとすれば分からなくなり、
思念を凝らせばその見えない働きが見えてくる、というものです。
つまり理解というより察知、感知するものともいえましょう。

言い方を変えれば、いま、肉眼で見ているこの多様な現象世界の奥にある真実の世界、
つまりは実相というただひとつの世界(宇宙生命の根本エネルギー)に帰するものだということです。
現象世界を「あるがまま」に視るとは、見えるものの奥にある
「すべてに備わっている宇宙の永遠のいのち」も併せ視る、ことと言えます。
いのちの働きの輝きや美しさが視えるでしょうか?

たとえば正岡子規の俳句は写生論で知られていますが、のちに歌人の斉藤茂吉が「実相観入」という歌論を一歩進め、皮相の写生にとどまらず実相に徹して、見えるものの奥に潜んでいる本質までを短歌写生しました。

あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり 『あらたま』

ところで人間は形のあるものは信じられるのですが、形がないものを信じるのには難しく
「信じる」という意志力が問われるようです。
ことに現代人はその力が弱ってきて、「何かを信じきる」ということができないで、
不安で疑心暗鬼の人生を送っていることも多いように感じます。

特に目には見えにくい教育や愛情、また言葉など、自分の感受性が不足していると、
その本質や真相などを見失ったり、忘れ去ったりして、つい軽んじてしまいがちです。
それに言葉はすべてを表現し尽くせるものではありません。
逆に言葉にとらわれ過ぎると本質が見えなくなる経験をお持ちのかたも多いと思います。
何が信じられるのか、何を信じるのかを自分のなかに確立できればどのようなことが
起きても泰然としていられるというものです。

「聴くに心を以ってすれば即ち聡なり」で、社会において「人」に指導したり、教育したり、他者と接触する機会のある人は相手の見えない心、言葉として現れにくいところを感受していけるように努力したいものです。言動にも同じような天地自然の理があるのです。 (華)