こころに響くことば 2008年分
2008年1月
『年をとるにつれ、強者と弱者、大物と小物を分ける大きな違いが、精力と揺るがざる決意、 生死をかける目的にあることを、ますます確信するようになった。この世で成し得るどんなことも、 どんな才能も、環境も、機会も、それなしには人を、真に人たらしめることはない。』
−リチャード・バートン卿−
(19世紀、英の探検家)



すべての願いが現実になる、「引き寄せの法則本」が相変わらず隠れたブームです。
前掲は1906年に刊行された、シカゴの法律家でニューソート運動の先駆者、ウィリアム・W・アトキンソン 著の「引き寄せの法則=(林陽訳)」に述べられている言葉ですが、願望が実現する、しないの違いは どこにあるかをパートン卿が端的に説明しています。
ナポレオン・ヒル博士の「思考は現実化する」など 成功哲学書などにもみられる、宇宙の原動力を動かすには何が最も違うのでしょう?

それは「精力」と「揺るがざる決意」の二つがあるかどうかなのです。
その二つが堅固な壁、大きな障害物を乗り越えさせるのであり、しかもそれらは同時に使わねばなりません。
堅く決意しなければ「精力」は浪費されてしまい、また「精力」はあり余っているのに集中力がなくて、 焦点を定められないと実現化していきません。
精力がみなぎっているのにうまくいかないのは、 たいして興味もないことに精力、神経、時間を浪費しているからなのです。
それと「揺るがざる決意」に 欠けていると、他者を魅了する強い力を発揮できません。
やるべきことに向かって全力を一点に絞り、 意志の力で「揺るがざる決意」を誘導すれば、願望を遂げることができます。

心の底から「やる!」といえるところまで奮起することが大切です。
そこに到達すれば後戻りせず「意志」と呼ばれる大いなる力を発揮できます。
「意志力」を研究してきた人は「意志=想念」が宇宙の大原動力の一つであり、正しく集めて誘導しさえ すればほとんど奇跡といえることを実現できる、と知っています。
創造力は想像力から発し、想念は宇宙意志に繋がっており、人、もの、資金、情報、必要なことはすべて 自分に引き寄せてくるのが可能とされています。
世の達人と言われる人たちは、我々とそうそう変りません。
違うのは、心の資源の使い方を知っている、ということなのです。

さて、今月は、次のことを実践してみませんか。

●あなたはこれからの人生において、どのような願望を達成・実現させたいと願っていますか?リストアップしてみましょう。
●次にそのリストのなかから、是非とも実現させたい願望をいま、ひとつだけ選ぶ、としたら何を選びますか?
●最後にその願望が実現したところを強く、何度も繰り返しイメージしてみましょう。イメージしやすいようにコラージュ(写真、文字など切抜き)を目に付くところに張っておくのもよいでしょう。

熱烈、強烈な想いだけが、もろもろの障害を乗り越えさせます。そして求めれば求めるほど、 それを得る「引き寄せの法則」の力は大きくなります。一度にひとつのことだけを願いましょう。 二兎を追うもの、一兎をも得ず、です。また負の思いも引き寄せるのでこれは要注意です!

2008年2月
『 Youth is not a time of life, it is a state of mind.It is a temper of the will, a quality of the imagination,a vigor of the emotions, a predominance of courage over timidity, of the appetite for adventure over love of ease. 』
【Samuel Ullman (サミュエル ウルマン)】

これはサミュエル ウルマンの有名な詩の「Youth(若さ)」という一節です。あのマッカーサー元帥が座右の銘としていたものだそうですが、この詩はご存知の方も多いのではないでしょうか?
松永安左衛門の訳によれば

「”若さ”とは人生の一時をいうのではない。
それは心の状態をいうのだ。
たくましい意志、優れた想像力、
燃ゆる情熱、怯懦(きょうだ)を乗り越える勇猛心、
安逸を振り切って冒険に立ち向かう意欲、
こういう心の状態を”若さ”というのだ。」

「若さ」は宝だと思います。しなやかな思考、軽いフットワーク、それだけでも身体の細胞がイキイキしている感じがするものです。長寿国のわが国には百歳以上の人が二万人以上もいらっしゃって、その生き方にはしばしば驚かせられ、若者より「若さ」を保っていらっしゃって感動します。

若くいられる「かきくけこ」というのがあります。

「か」 感動する。
日々の暮らしのなかで、五感を使うことです。感性が豊かだとイキイキとしていられます。
「き」 記録する。
五感を動かし、感動したことをメモにしたり、自分史などを書きまとめたりすることは脳の活性化につながります。
「く」 工夫する。
人間は創造するために生まれている、といっても過言ではありません。日々の暮らしは創造そのもの、そのなかで創意工夫をしていくことが充実感を達成します。
「け」 健康である。
心身ともに健やかであることは第一の財産です。健全なる身体に健全なる精神宿る、とは一面の真理でもあります。
「こ」 恋をする。
いわゆる恋愛というものでなくても、人を恋う、という行為は、おしゃれ心、みだしなみなどに気をくばるようになり、若々しくいられます。

もうひとつは心理カウンセラー深沢道子さんに20年ほど前に教えて戴いたアメリカ版の 「若くいるための5C」です。
【Curiosity】好奇心。〜したい、という好奇心。
【Change】 変化。その場に即応し、しなやかに変化させていける力。
【Communication】コミュニケーション。人と交わって刺激を受ける。
【Commit】専心。興味、関心のあることに没頭できる情熱。
【Cash】 現金。若くいるための自己投資には必要。

みなさまにおかれてはいかがお考えでしょう?老化とは頭脳も神経も身体もひたすら硬くなっていくことです。死とは硬直状態をいいます。「若々しさとは年齢ではない」というサミュエル・ウルマンのこの詩のように「心の状態を若くしておく」ことが、疲弊した現代社会に生きる私たちに必要不可欠なことなのではないでしょうか?

2008年3月
「盛年不重来 一日難再晨 及時当勉励 歳月不待人」
「盛年(せいねん)重ねて来らず、一日(いちじつ)再び晨(あした)なり難し、時に及んで当(まさ)に勉励すべし、歳月は人を待たず」  −陶淵明−


これは中国の陶淵明の「勧学」という詩で、「五言絶句(ごごんぜっく)」のように扱われていますが、五言古詩の漢詩で「雑詩」の後聯(こうれん。律詩の第5・第6の両句。対句。)です。本来の意味を変え、「酒の詩」が「学問の詩」に化けて重用されています。

この世は諸行無常で、時は容赦なく刻々と流れて行きます。若い時期というものは、朝が一日に二度はこないように、再びは訪れてきません。大切な時間を迂闊にもボーッと過ごしていると20代きょろきょろ、30代うろうろ、40代にへなへな、になりかねません。歳月は人を待ってはくれません。このことは若い人たちばかりに限ったことではなく、われわれすべてにしっかりと生きよ、とのメッセージとして感じ取れます。
たった一度だけの人生、「いま、ここ」をしっかりと地に足の着いた生き方をしていきたいものです。

もうひとつ、三月にはつきものの「別れと出会い」「お酒」に関連して想起される漢詩があります。于武陵(うぶりょう)の五言絶句「勸酒(酒を勧む)」です。

「君に勧む金屈卮(きんくっし)  満酌辞するを須(もち)いず  花発(ひら)いて風雨多し  人生別離足る」

この漢詩には井伏鱒二の名訳で、「コノサカヅキヲ受ケテクレ ドウゾナミナミツガシテオクレ ハナニアラシノタトヘモアルゾ 「サヨナラ」ダケガ人生ダ」

(井伏鱒二『厄除け詩集』 注; ハナニアラシノタトヘとは「月にむらくも叢雲、花に風(=嵐)」のことで、とかく物事には邪魔が生じやすいことのたとえ。)

すべてのものごとは移りゆき変化していきます。またなにごとも会うは別れの始めともいいます。新しい春には新しい出会いをするために、切り捨てるべきは切り捨て、新たに進むことが肝要かと思われます。

2008年5月
Life is beautiful in spite of all its sorrow and care.
−Lucy Maud Montgomery−

『苦労や、悲しみも多いけれど、やっぱり人生は美しい。(ルーシー・モード・モンゴメリ)』

5月1日はメーデーですね。昨今は派遣社員、ワーキングプアなどの雇用労働問題など山積し、労働者の雇用条件もますます厳しくなってきております。
アメリカはじめ、日本、ドイツなどかつての経済先進諸国が経営経済効率を追求した結果、高賃金の自国内の労働力を使用せず、安価であるインド、中国、東南アジアなどへと求人が流れ、自国内では派遣社員、パートにその労働力を求めることとなりました。
まだまだこの流れは治まらず、若い人に限らず「働ける」場が減少傾向にあります。
いずれにせよ人間にとって働ける場があることはほんとうにありがたいことです。

さて、先述の言葉は、小説『赤毛のアン』で知られているモンゴメリの日記の中に出てくる言葉です。
この言葉を含む前後の文章は概ね以下のように訳されているようです。

『ああ、働ける限り、私たちは人生を美しくできる! そして、人生は、悲しみと苦労に満ちているにもかかわらず、美しい。』

この事実に私は日々改めて気づき、人生の美しさがよりはっきりわかるように思う。この世界には、私たちがそれを見る目やそれを愛する心や自分自身で集める手を持ってさえいれば、こんなにも多くの素晴らしいことがある。狭く限られたところにさえ、生活のいたるところに喜び、楽しみ、感謝すべき多くの素晴らしいことがある。』

自分の人生をどのようにとらえるか、すべては自分の感受性次第です。喜び、楽しみ、感謝もなく、人生を素晴らしいものだと感じられないなら、人生の素晴らしさとは何か、と探しだして焦点を合わせてみたいものです。仏教では「唯心所現」といい、自分が思ったり意識を合わせたこと(フォーカス)が現実として現れてくるのだといわれています。
プラス思考が大切なのもうなずけますね。

あなたにとって美しく素晴らしい人生とは何でしょうか、それを手に入れたいと思うのならもっと深く人生を探求し、生きるとは何か、に意識を向けてモンゴメリのように人生のほんものの美しさを感じてみませんか!

2008年6月
『あせることは何の役にも立たない。後悔はなおさら役に立たない。あせりはあやまちを増し、後悔は新しい後悔を作る』
−ゲーテ−

あなたは向上心が強いほうだと思われますか?

向上心が強い人ほど、理想の自分と現実の自分を比較して「あせり」を感じているようです。しかし、「あせり」は、絶妙なタイミングを見落としたり、大切なことに気がつかなかったりすることが多く、禁物です!

あせる理由は何なのでしょうか? じっくり自問してみることが大切です。

タイミングは「運」とともにやってきます。タイミングを見極め、行動できるために、「学び」はコツコツと重ね、続けておきましょう。そうしていつでもスタンバイ状態に自分を「あたため」ておくことで「運」をつかみ易くなります。あせらずあわてず「チャンス」は(策を)練ってまちましょう。

「運」を逃したとき、ほとんどの人は後悔で、心が後退してしまいます。

後悔は、そのことにとらわれ過ぎて、人が前に進もうとするエネルギーを奪います。後悔するより、一歩、前進するために(行動を起こす)現実的で具体的な検討をしてみましょう。

自分が「何を得るために、どのような目標を立てている」のか?
その達成のために、自分の持っている能力(資格、技術、お金、人柄、人間関係など)をチャートなど作って再検討し、「後悔するような経験」を経験知として活かし、さらに前進できるようになりたいものです。ただ、行動したあとの「振り返り」をしてみることは重要です。

「後悔先にたたず」「過去と他人は変えられない」などのことわざもあります。
あせったり、慌てたり、後悔するまえに「よく練り上げた企画(行動計画)プラン」を今月は作成してみませんか?

2008年7月
『子曰く、人の己(おのれ)を知らざることを患(うれ)えず。人を知らざることを患(うれ)うなり。』
− 孔 子 −

孔子がおっしゃいました。他人が、こちらの真価を知ってくれなくても、気にかける必要はないのだ。それよりも、自分が、他人の真価を認めないことを、心すべきである。(史跡足利学校の論語抄抜粋)

現代の多様な価値観をもつ人々のなか、相手の承認を得たり、また相手を承認していく、ということは至難の技かもしれません。
これは表面的に受けとめますと、相手が自分の値打ちを認めなくても気にかけずともよい、むしろ自分が相手の値打ちを認めて行くことが大切、というように受けとめられます。が、実はたいへん奥の深い意味があるのではないかと思うのです。

ところで話は変わりますが「人に認められたい」という承認欲求は基本的には誰にでもあるものです。しかし、日本の伝統的精神文化はこのような心を表出するのは「はしたない」「見苦しい」として、あまりよしとしてきませんでした。なぜでしょうか?

現代は欧米文化との交流とともに次第に健全な自己主張として、当然のように自己アピールなどが行われるようになってきました。コーチングの技法にも「承認欲求」を認めることが最重要としています。

自己実現論でよく知られているアブラハム・マズロー(Abraham Maslow・米・心理学者)が唱えた説で「マズローの欲求段階説」というのがあります。 彼は「人間は自己実現に向かって、絶えず成長していくものだ」として5段階説を表しました。実証研究としては不十分な面があるとされながらも経験的、直感的にはとても解りやすい説と思います。

この「マズローの欲求5段階説」は、欠乏充足欲求(食欲、性欲などの生理的欲求)のような低次の欲求レベルが満たされてはじめて、より高次の成長欲求を実現していこうとする動機が現れるとしています。
その5つの実現欲求動機の階層のなかで「評価・承認欲求はレべル4」であり「レベル5の自己実現欲求」に向かうためには、この欲求を満たさなければ成長動機は希薄である、としています...。

自己実現とは一言で言えば「自分が自分になる」ことです。心理的な自由性を持ち、自分の個性をあるがまま受け容れ、芸術を楽しみ、自然愛、人類愛など心豊かな状態になれるということです。仏教や心理学者のなかでは、この5段階説をさらに高次の6段階説として「超自己実現」と唱えている学者もおられます。

さて、冒頭の孔子のことばに戻りますが、深奥にあることというのは、簡単にいえば、われわれは生まれながら、既に「豊かな自分」を戴いているのだ、という「命の存在の根源」を自覚することが大切だということです。宗教的に言えば神の子、仏の子の自覚というのでしょうか? それを自他のなかに見出して行くことに心せよ、と仰っているように思われます。

それは変化しやすい価値、評価、尺度を越える、絶対的なものなのです。孔子の「己を知らざること、人を知らざることを患える」は、その存在の根源のことを指しているように思えてなりません。

財貨や名誉、人からの愛情を得られても自己充足感の無い人も多く、むしろ空しさを覚える人も多いようです。人は究極、何を得たいのでしょうか?忙しい人生の中で、このことを考える時間を少し割いてみませんか?

2008年8月
『水五訓』
−黒田 如水−

一、 自ら活動して他を働かしむるは「水」なり。
二、 障碍に遭いて激し、其の勢力を百倍し得るは「水」なり。
三、 常におのれの針路求めて已まざるは「水」なり。
四、 自ら潔うして他の汚濁を洗い、而も清濁併せ容るるは「水」なり。
五、 洋々として大海を充たし発して蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ、凍っては玲瓏たる
   氷雪と化す。而もその性を失なわざるは「水」なり。

8月はまさに「水」のシーズンですね。河川、海、プールなどに涼を求めて出かける方も多いのではないでしょうか?本年の暦では「一白水気中宮」の年まわりにあたり、併せて地球の温暖化で水蒸気が多くなっているため、豪雨、河川氾濫、水の事故も多くなりそうですからくれぐれも注意したいもの
です。

ところで「水五訓」は黒田官兵衛孝高〔如水(じょすい;安土桃山時代の軍師)〕のことばとして有名ですが、もともとは陽明学の王陽明(おうようめい;中国明時代の儒学者)から出たようです。如水は江戸時代後期に活躍した歴史家、文人、漢詩人で、詩吟の「鞭声粛粛夜河を過る〜(べんせいしゅくしゅくよるかわをわたる)」で始まる川中島の合戦を描いた詩でも知られる人物です。「如水」という名のとおり処世訓は「水の如し」の生き方としたのでしょう。

この五訓の水のありようから学び、人生をいかに生きて行くか、処世訓として次のようにくみとってみました。

1、 たった一人の思いや活動が、万人に波及していく、一念三千世界。
2、 目標達成のためには障碍を乗り越え、結束力を強め前進する。
3、 自ら進むべき方向、方針をしっかりと見極める。
4、 多様な社会のなかでは清濁併せ呑む器量をもち、自らは潔くして周りを教化していく。
5、 水の如く「時と場」に応じて柔軟に変容しつつ、本来の個性を活かした生き方に徹する。

水は方円の器に従い、また高きより低きに流れていきます。その柔軟性とともに、多くの集りになるとその破壊力はすさまじいものがあります。一滴の雨水が寄り集まって大河をなし、やがて大海に注ぐイメージとともに人間社会の仕組みと似ていて興味深く、微小な水一滴、人間一人一人の存在と力を尊重しなければ大事大計は成らないことを痛感します。

また「水」はすべての生命の発生起源でもあります。神というのは、火(か)と水(み)の光合成で創造された生命体のことのようです。つまり人間社会も一人一人の神さまの集りであるのでしょう。

人体はその六割以上が水分で成り立っており、また食料がなくとも水だけ飲んでいれば数週間は生き延びられるというほどです。いかに「水」というものにわれわれが支えられているかを痛感します。酷暑のなか、涼しい滝の音を想像しながら、水に学び、水に支えられていることを心から感謝しているところです。

2008年9月
『人間はどんな境遇にあっても、自分だけの内面世界は創り得るのです。いかなる壷中の天を持つかによって、人の風致が決まるものです。』
−安岡正篤(まさひろ)−

これは昨年10月に発刊された「安岡正篤、こころを磨く言葉」の一節ですが、以下のように池田光氏が解説をされています。
安岡が揮毫(きごう)の際、よく書く言葉に「六中観(りくちゅうかん)」があります。「忙中閑あり 苦中楽あり 死中活あり 壷中天あり 意中人あり 腹中書あり」というものです。このうちのひとつが「壷中天あり」ですが、これには『後漢書』方術伝に故事があります。
昔、汝南(じょなん)の役人をしていた費長房(ひちょうぼう)という男が、薬売りの老翁に頼み込んで壷のなかに入れてもらい、金殿玉楼がある別天地の楽しみをしたというのです。

さて、この言葉に三つのポイントが伺えます。

@ 人はどんな世俗の生活にあっても、別天地の楽しみをすることができる。
A そこで、どういう別天地を持つか、内面世界をつくるかがポイントになる。
B この内面世界こそが、その人間の趣を決める。


ということです。その内面世界が現実世界にあって、どこか俗世を超越させてくれるのです。それが風雅をかもしだします。

現実がどうあれ、人間の味わいとは「いかなる内面世界をもっているかによるもの」だということは、いわゆる「道」を学ぶ方たちの自他のなかに大なり小なり経験的に感知されているのではないでしょうか?

所詮、この世は夢を見ているようなもの、現象に振り回されすぎないことも肝要かと思います。自分はどのように生きたいのか、イメージしてみましょう。「玉も磨かざれば光なし」という言葉がありますが、玉は「魂」です。内面から輝きを放つには、艱難辛苦を忍耐をもって、また別天地である内面世界をもって霊性を高め、魂を磨きながら、悠然と生きていきていきたいものです。

人間の生活は創造的生活の連続ですから、常日頃から精神に刺激を与え、心田を耕し柔らかくし、いろいろな発想が育ちやすくしておくことが肝要と思います。ちなみに生命力(=エネルギー)は精神的刺激を受けることで湧きあがってくるもので、その生命力が弱まれば創造力も鈍くなってきます。

とかく苦労があるときは自信を失くしたり、愚痴や不満、ひいては怨みごころを募らせたりしやすいものです。苦労は自分が伸びる、成長できるチャンスととらえ、苦労や難儀を活かしましょう!
偉人から学び、自分磨きをして内面を高みにおきましょう。自分なりの別天地を持とうではありませんか!

2008年10月
『呼吸とは、呼は息を吐くことであり、吸は息を吸うことであります。まず吐いてから吸うのでなければ本当の呼吸とは言えない。ところが、大抵の人は吸呼している。吸ってから吐いている』
−安岡正篤(まさひろ)−

「安岡正篤、こころを磨く言葉」から引用しますと、『無意識に行っている普段の呼吸は浅いレベルで行われています。つまり呼吸しても肺に空気は残っていてすべて入れ替わっているわけではないのです。まず意識的に息を吐き出すと、沈殿していた「一息」がホッと吐き出され、次は息を吸おうと思わなくても自然に空気を取り入れることができます。』
(池田光著)

「息」とは「いきる・いきている」証しなのです。呼吸が止まれば即、死にいたるのですから。呼吸とは「生」の原点と言えます。息を整え、良い息をすることは即ち「良い生きかた」ができる、ということになります。

かつて調和道丹田呼吸法〈創始者・藤田霊斎〉を伝承している鈴木光弥先生に師事していたときに教わったことですが、上半身の力がすっと抜けて、上虚の姿勢になっていると商談、スピーチ、試験など何かを行うときに普段以上の力を出すことができるのだそうです。上体が力めば胸郭は筋肉で固められ自縄自縛状態になります。胸郭が自由に広がったり、縮んだりすることを制限して、呼吸を浅く弱いものにしてしまうのです。この呼吸への弊害は心身に多大な影響を及ぼしていきます。

上虚について鈴木先生が山崎闇斎(あんさい)の『有感』言う詩を紹介してくださいました。

『そぞろに思う天公世塵を洗うかと
雨過ぎて四望更に清新
光風霽月(せいげつ)今なおあり
ただ欠く胸中洒落(きょうちゅうしゃらく)の人』

「胸中洒落の人」とは何のわだかまりもない人、さらりと力の抜けた人のことをいいます。
雨上がりの爽やかな光る風のような人、晴れた夜空に輝く月のようにすっきりとした、
光風霽月のような人は僅少だけど存在しますが、胸中洒落の人はほとんどいない、と言われます。

胸中洒落とは、言い換えれば禅でいう「放下著(ほうげじゃく)」『五家正宗賛(ごけしょうじゅうさん)』の趙州(じょうしゅう)和尚の章にある話』です。「放下」とは投げ捨てる、捨て切る、捨て去る、の意です。「著(じゃく)」とは命令の助辞〈じょじ〉で、放下の意を強めており、つまり「放下著」とは、すなわち煩悩や妄想はいうに及ばず、仏や悟りということなども捨て切り、すべての執着を捨て去りなさい、すべて放下しなさい!ということです。

なんと清々しい心境でしょう!日ごろ、妄想、煩悩に振り回されあくせく暮らしているわれわれも、息を深くして上体を柔らかく、腰と肚(はら)に気を落とし、ゆったりとした精神になって1ヶ月に一度くらいは「放下」の心境、屈託のない心になってみませんか? 腰と肚の文化は日本の貴重な伝統文化です。ぜひ次世代に伝承していきたいものです。

心に何かつよい蟠り(わだかまり)を持っていると、その人物の気のオーラが濁ってきます。内面からきらきら清らかに輝きだす「気」を創るのには、正しく深く丹田呼吸法をすることが大変に有効である、と思います。(華)

2008年11月
『行くに径(こみち)に由(よ)らず。』
−孔子(論語)−

行くときは少々遠回りであっても、大きい道を行きなさい、という意味で使われています。渋滞のときなど道がこんでいるからと、裏道を走ったほうが早いような気がするものです。
しかし到着してみれば、僅か数分の、さほどの時間節約にもなっていないことがあるものです。むしろ、ばたばたして裏道に入って、面倒が起きたり、事故になったり、と良いことが起こらないことさえあるものです。

また大道は混んでいるようでも案外たいした混雑でないことも多いものです。この意で、何事においても、裏道を行くようなことをしても、結果は大差がないか、逆に思わぬ誤算が待ち受けていたりするものです。裏道を行き、成功することもありますが、長い目で見ればやはり正々堂々と大道を進んで行くほうが間違いないですよ、との戒めを言われています。

あわせて「急がば回れ」ということばも同様に「急ぐときには危険な近道を行くより、遠くても安全な本道を通るほうが結局は早いものです。」安全で着実な方法を取りなさい、という戒めです。

ちなみに「急がば回れ」の語源ですが、室町時代の連歌師・宗長の歌の「もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ 瀬田の長橋」です。「もののふ」とは武士、「やばせの船」とは「矢橋の渡し」のことです。
「矢橋の渡し」とは、東海道五十三次草津宿(滋賀県草津市矢橋港)〜大津宿(大津市石場港)を結んだ湖上水運で、「瀬田の長橋」とは日本三大名橋のひとつである「瀬田の唐橋」のことです。
当時、京に向かうには、矢橋から琵琶湖を横断する海路のほうが、瀬田の唐橋経由の陸路よりも近くて速いのですが、比叡山から吹きおろす突風(比叡おろし)により危険な航路であったため、このようにうたわれたのです。

最近、スローライフ、スローフードなどのことばに象徴されるようにじっくり、ゆっくりと人生や食物などを熟成させていくライフスタイルが提唱されています。あわてて成したものにろくなものはできないですし、仕上がりも今ひとつ、です。なにごともおいても、じっくり、ゆったりと構えて実相を観察し、機が熟すればすばやく行動を起こすことが肝要だと思います。

2008年12月
『逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎(お)かず。』
−孔子(論語)−

あるときに、孔子が川のほとりにたたずんで、とうとうと流れる川を眺めながら次のように言われたそうです。「ああ、過ぎて行くものはこのように、一刻も休むことがなく、流れて行くのだなあ」と。光陰矢のごとし、あるいは光陰流れのごとし、というように、時はこの川の流れに似て一瞬たりとも止まることなく流れ続けます。うかうかしているとただ人生という川をただ流れさせているだけ、になりかね
ません。 

ちなみにアレキシス・カレル(フランス・外科医、生物学者)の著書「人間-この未知なるもの」のなかで、時間は物理的な時間と人間の肉体的な時間の二種類があることを述べています。たとえば同じ速さで流れる川のそばを朝早くどんどん進む歩いたときと、夕方に疲れて足を引きずるように歩いたときは、川の流れの早さが違って見えます。これは人間の生理的な時間である、といっています。

このように年齢を重ねてくると、子供のときと違って毎日が恐ろしい勢いで過ぎ去り、一年あっという間に過ぎて行くように感じるものです。このことは、いきおい「明日があると思うな」という戒めに感じます。一日一日を今日為し得ることを明日に延ばさないようにと肝に銘じ、計画を練るときから充分に時間配分に配慮したいものです。

テレビ、電話、むだな酒席のつきあいでズルズル、ダラダラは、やはり時間の無駄遣いのなにものでもありません。そのような相手とは遠ざかるほうが賢明と思います。ただでさえ多忙な年の瀬です、時間はおおいに有効に活用したいものです。