今月の言葉 2008年分
1月のことば 2008年度(丁亥、年盤/二黒中宮)1月(月盤/九紫) 1/7〜2/3
恭賀新年
【人と交わるには厚と信】

親戚を親しまざる者は、他人に於ても亦(また)疏薄(そはく)なり。 往事を追わざる者は、当務に於いても亦(また)苟且(こうしょ)なり。凡(およ)そ交道(こうどう)は厚の字、 信の字を忘るること勿(なか)れ。 佐藤一齋   言志耋録より

【訳文】
身内の者に親しまない人は、他人に対してもまた薄情なものである。 過去のことを思い返さない人は、当面の任務についてもいい加減にするものである。 すべて、人に交わる道は厚と信、即ち情に厚くしてまことを尽くすにあることを忘れてはいけない。

【語義】
●疏薄(そはく)→疎遠で冷淡なこと。
●往事を追う→過去の事柄を大切にする。
●当務(とうむ)→当面の任務、現在の仕事。
●苟且(こうしょ)→なおざり、その場しのぎ。
●信→誠

【付記】
年頭にあたり心より新年のお喜びを申し上げます。 地球上には戦いのさなかにある国々もあるなかで、日本は先人、 先輩たちの努力のお蔭様で、こうして平穏に新年を迎えられたことに、 まことに感謝の気持ちでいっぱいです。

ところで唐突ですが、人間は何の目的で生まれてきた、 とお思いですか? いろいろ考察されてきた方も多いのではと思いますが、みなさまはどのようにお考えでしょう。 いろいろ書物を渉猟いたしますとそれぞれのお立場から、心の糧になることが多く記されてあります。

そのなかでも身体(肉体)、心(精神)、魂(生きとおしの我の意で)という 三位一体で人間をとらえ、その「魂」という視点からみて、人生の「真」の目的とは「人間は人と関わり、 絆を結ぶために、生まれてきたのである。」ということがもっとも腑に落ちます。
現世的には、有名大学を出たり、職業的に地位を得たり、高収入や豪邸や外車を手に入れることなどと 思われがちです。 それを真っ向から否定するわけではありません。 それは目標ではあっても、人生の真の目的とは言えないのでは、と思います。

人生の「真」の目的は、他者と関わりながら切磋琢磨するなかで、互いの人格を磨きあい、絆を結んで (つながりあう)いくことこそ、大切な目的なのです。 ヒトとヒトとの間で交わりがあるから「人間」になるのであり、交わりがなければ人間としての成長も少なく 単なる「ヒト」のままです。 人生において縁のあるすべての人たち、ときには辛くわずらわしく 感じる人さえも、実は自分を磨いてくれる、成長させてくれるための「磨き砂」だそうです。

また相手は自分というものを映し出してくれる鏡のようなものだ、と前向きに捉えて考えることができます。 いつの世も人間関係は、夫婦、親子、師弟、職場、友人、近隣、恋愛…どの関係をとってもほんとうに面倒で やっかいなことが多いものです。 ゆえに神代の昔から諸賢人たちも人間関係について永々と考察して きました。

今月のことばでは、凡(およ)そ交道(こうどう)は厚の字、信の字を忘るること勿(なか)れ、 と情の厚さと、誠を尽くすことが大切と説示されています。 情けは人の為ならず、です。 情けをかけておくといつか自分に還ってくる、という姑息なものでなく、他者に進んで愛情を持って かかわりを持とうという思いが、自らの魂を磨くことになるのです。

たった一言、「元気にしている?」でも人は温かい気持ちになれるもの、多いに実践していきたいですね。 現代社会は熾烈な競争社会にあり、またスピーディであわただしく日々が過ぎ去り、多くの人間関係が少しも 深められず希薄です。 かなりの人々が「絆」を感じられず寂しく、人間愛に飢えて、 なにか物足りない人生を送っているようです。 今ここで、人生の真の目的を想い起し、面倒がらずに人との関わりを持ちたいものです。 愛や情けとは所詮、面倒なものなのですから。 (華)

2月のことば 2008年度(戊子,年盤/一白中宮)2月(月盤/八白) 2/4〜3/4
【人情の向背は敬と慢にあり】
人情の向背(こうはい)は敬と慢とに在り。施報(せほう)の道もまた忽(ゆるが)せにす可(べ)きに非ず。恩怨(おんえん)は或は小事より起る。慎む可(べ)し。

【訳文】
人情が自分に向くか背をむけるかは敬と慢の二字にある。 即ち人を敬すれば人に思われ、人を慢(あなど)れば、人に背かれる。 人に恵みを施し、また、恩に報いる道もまた忽(ゆるが)せにしてはいけない。 恩や怨は或いは小さな事から起こるものであるかも知れないが、十分に慎まなければならない。

【付記】
「恩」と「怨」について、同じ晩録のなかに次のように述べられている。 恩を受けたら恩を返し、怨みを受けたら怨みを返すというように恩と怨みをはっきり分けることは君子の執るべき道ではない。 徳を受けて報いるべきはいうまでもない。

さて、怨になると、自ら人に怨まれるに至った原因をよく考えて、そのもとを怨むべきである。 では、他人から怨みを受けた場合どうしたらよいのか…

@怨みを受けたら、その原因を怨めというのが一斎先生の考えである。
A「直をもって怨に報ゆ」と『論語』は教えている。つまり公平無私をもって怨みに報いよ、ということである。
Bダンマパダ(真理のことぱ、または法句経)の5番で次のように教えている。
「まことこの世において、怨みをすててこそ怨みはやむ。これは永遠の真理である。」
Cキリストはバイブルで次のように教えている。
「裁きは神にあり」
つまり、どんな仕打ちを受けても自分でやり返す必要はない。
善きも悪しきも神が裁いてくださる、ということである、と著者の川上氏は述べられている。

2月1日朝、NHKテレビで瀬戸内寂聴(尼僧で作家)さんと、医師の鎌田實さんが平和や愛について濃密な内容の対談をされていた。 去る2001年、とてもショッキングだった9.11アメリカの同時多発テロでは、悲惨な多くの被害者を出した。 アメリカでは、これには報復、ということが当たり前に考えられているらしい。 「本当に悔しい!」と思う。

が、しかし、そのような報復のための憎しみの連鎖をつくると争いは永遠に続くだろう。 怨む、憎むというのをやめて、やさしさ、思いやりという愛ある行動こそ平和への道だと両氏は話されていた。 憎い相手を赦す、という行為はほんとうに勇気がいることだが…。

ところで鎌田先生は、実の両親の顔を知らないそうだ。 捨て子にされた先生を鎌田岩次郎夫妻が拾って養育されたらしい。 岩次郎さんは小学校しか出ていないし、とても貧乏のうえ病人も抱えていたそうだ。 それなのに、捨て子を拾って育てる、という心の豊かさに心から感動せずにはいられない。

また先生が若い頃、大学進学を強く希望し、義父の岩次郎さんの首根っこを掴んで締めんばかりに押し揺らしながら懇願されたそうだ。 しかし、それには「貧しいから応えてやれない」と涙を浮かべながら岩次郎さんは言った。 「しかし今後はお前の好きに生きていい。だが俺たちのような貧しい人々のことをいつも忘れずに」と言われたそうだ。 先生は義父にとても大切なことを教えてもらったと話されていた。 学問があり、お金がある、とかいう以前の、人間としてもっとも大切なもの、「人間愛」を持つ人こそが、人を真にまっとうに育てられることができるのだと痛感する。

今日、広く知られているとおり、鎌田先生は地域医療(長野諏訪病院院長)の先駆者として、また原爆の後遺症、白血病などに取り組み、チェルノブイリまで愛ある治療に出かけられている。 たくさんのご著書の中にも愛にあふれている先生の姿が映じられ感動する。 「愛ある人」こそが愛ある人、思いやりのある人間を育むのだといまさらながら痛感している。 患者のことを話しながら、すぐ涙ぐむ先生はほんとうに観音菩薩さまのようだ。 (華)

3月のことば 2008年度(戊子,年盤/一白中宮)3月(月盤/七赤) 3/5〜4/3
【不易の易】

古人、易の字を釈して不易(ふえき)と為す。試みに思えば晦朔(かいさく)は変ずれども而(しか)も昼夜は易(かわ)らず。寒暑は変ずれども而も四時は 易(かわ)らず。死生は変ずれども而も生生は易らず。古今は変ずれども而も人心は易らず。是れ之れ(これこれ)を不易の易と謂(い)う。
佐藤一齋   言志耋録より

【訳文】
漢の鄭玄(ていげん)は易を解釈して不易といった。 それはこういうわけだ。 静かに考えてみると日付は晦日から朔日と変わるけれども、昼と夜と易(かわ)らない。 寒さ、暑さは変わってゆくが、春夏秋冬はいつも易らずに繰り返されていく。 死ぬと生きるは変わるけれども、後から後から生まれてくることに易りはない。 時間的に昔と今は変わっているが、人の心は易らない。 蘇東坡の言った「その変ずる側から観れば、天地も一瞬なる能わずであるが、その変じない側から観れば、物も我も皆無尽である」というわけで、これを不易の易という。

【付記】
「易」という字には三義(さんぎ)、 つまり@変易、 A不易、 B易簡の三つの意味があります。 「変易」とは、世の中のすべてのものごとは時々刻々と変化しており、変わらないものは何ひとつとしてない、ということです。 気象や環境、人の心と身体や考え方、建造物や生物たち、会社組織、家庭も、何もかも森羅万象、刻々と変化していくことを言います。

「不易」とは、変易のその変化のしかたには一定の不変の法則があるということです。 たとえば季節でいえば、春から夏へ、夏から秋へ、秋から冬になり、そしてまた春が巡ってきます。 しかしその春は、一年前の春とは違う、まったく新しい春なのです。 春は冬を経ずして春になることはありません。 そして氷雪におおわれた厳しい冬を経て、新しい春が必ずめぐりめぐってきます。 順序次第のある、この変化のしかたは不変だということです。

「易簡」とは、「簡易」の意味であります。易しくてシンプル、簡単ということです。 なぜ、簡易なのかは次のとおりです。 すべてのものごとは変化しています。 そしてその変化のしかたには一定の不変の法則があり、その法則は変わっていません。 自然界をよく観ればすべてのものごとがそれを教えてくれています。 ですから、もし私たちがその法則を素直に観て、素直に解ろうとしたら、それはとても易しいことだという意味なのです。 この三義を、私たちの人生、経営、仕事などに活用するのはいたって簡易なことであり、複雑なことではないということなのです。 大自然から学べば洋々と人生を渡っていけるという力強いメッセージと思うのです。 (華)

5月のことば 2008年度(戊子,年盤/一白中宮)5月(月盤/五黄) 5/5〜6/4
【気海丹田に気を充実せしめよ】
人身にて臍(せい)を受気の蒂と為せば、即ち震気(しんき)は此れより発しぬ。宜しく実を臍下(せいか)に蓄え、虚を臍上(せいじょう)に函(い)れ、呼吸は臍上と相消息(あいしょうそく)し、筋力は臍下よりして運動すべし。思慮伝為(しりょうんい)、みな此れに根柢(こんてい)す。凡百(ぼんひゃく)の技能も亦多く此くのごとし。

【訳文】
人体についていえば、臍は子供が母体にある時、気を受けるはずであるから、生々の気はこの臍より発する。 だから、気をこの臍下(これを気海丹田という)に蓄え、臍の上の方の力を抜いて、呼吸は臍の上と相通じ、筋肉の力は臍の下から発するようにして体を動かすべきである。 物事を考えることも何事かをなそうとすることも、みなここに根源があるのである。 その他、あらゆる技能も皆実に臍下の気海丹田に力を満たすことに基づかないものはないのである。

【語義】
●蒂⇒ほぞ、へた。果実が枝または茎と結びつくところ。
●震気⇒東方生々の陽気である。
●云為⇒言うことと為すこと。

【付記】
「気海丹田」に気を充実せしめれば病気も治るし、どのような難事業も解決できるといわれます。 詳しくは白隠禅師の「夜船閑話(やせんかんな)」「延命十句観音経霊験験記(えんめいじっくかんのんきょう)」(ともに春秋社刊)をお勧めします。

概要は、江戸時代の臨済宗の高僧・白隠禅師が禅の修業に励みすぎたため病になってしまいました。 頭はのぼせ、手足は氷のように冷えきり、精神的にはノイローゼとなり幻覚さえもあり、夜も眠れなくなったのです。 そこで、京の山中に住む白幽という仙人を訪ね、養生と病気予防の秘法を教えてもらって実行すると、ようやく難病を克服できたのです。

白隠禅師が73歳の時に書いた「夜船閑話」の中でその秘法の紹介がありますがそれは「内観法」と「軟酥(なんそ)の法」です。 爾来、今も禅僧を中心に多くの支持を得ております。 禅師いわく、この方法を何回も根気よく行えば、どんな病気も治せないものはないと。 その効果の現れはその人の熱意次第であるとしています。

それらの法の基本は「腹式呼吸」、つまり呼吸を深くすることです。 ポイントは呼吸するとき、意識を臍(へそ)下3cmぐらいに(いわゆる丹田)置きます。
@ まず深く息を吐き出します。体中の悪いものを全て吐き出すような気持で、細く長くゆっくりと吐きます。
A つぎに息を吸うときは鼻から吸いながら、お腹を意識して膨らましていきましょう。
慣れないうちは気にしなくてよいですが、慣れてきたら同時に肛門を閉めてみましょう。
B 舌は上前歯の後ろあたりに軽く置き、もちろん意識の方は丹田におきます。
C 呼吸の間隔は慣れてきたら、1・2・3で吸い、4・5と息を停めて肛門を閉め、6・7・8・9・10・11・12・13・14・15...と10秒くらいまで吐きましょう。 この場合、邪念を払うためにも数を唱えることがよいようです。 (数息観)以上が順腹式呼吸の概要です。

「内観法」や「軟酥の法」を行うには順腹式呼吸で行います。 (気功などでは逆腹式呼吸で行います。吸うときにお腹をへこまし、吐くときにお腹を膨らます方法で、かなり練習しないと難しいです。) ご周知のとおりわが国の武道、茶道など「道」とつくものすべてこの呼吸を大切にしています。 また自己に備わった自然治癒力を導くようです。

息をないがしろにすることは人生そのものをないがしろにすることになります。 なぜなら、「息=いきる」だから、だと丹田呼吸法の師、鈴木光弥先生に教わりました。 息が止まることは死を意味します。 呼吸が整えば自然に思考や行動の静動のバランスがとれてきます。 深い呼吸で丹力をつけ、「腹の人」になりましょう。 ところで、ちなみに阿吽の呼吸というのは「あ! (おぎゃあ)とこの世に生まれて、「うーん」と言ってこの世を去っていく始めと終わりのことをいうのだそうです。 (華)

6月のことば 2008年度(戊子,年盤/一白中宮) 6月(月盤/四緑) 6/5〜7/7
【学は一、等(とう)に三】
学は一なり。而(しか)れども等(とう)に三有り。初めには文を学び、次には行(こう)を学び、終わりには心(しん)を学ぶ。然(しか)るに初めの文を学ばんと欲する、既に吾が心(こころ)に在れば、即ち終わりの心(しん)を学ぶは、すなわち是れ学の熟せるなり。三有りて而(しか)も三無し。
佐藤一齋   言志耋録より

【訳文】
学問の道は一つである。 しかし、これを学ぶ段階は三つある。 初めは古人の文章などを学び、その次には古人の行為を学び、吾が行為を省みる。 最後には深く古人の真の精神を学ぶのである。 しかし、よく考えると初めに古人の文を学ぼうと志したのは、自分の心に起こったことであった。 そして最後の古人の精神を学ぶというのは、自分の志した学問が成熟した証拠である。 だから、学問に三段階あるといっても、本来、個々に独立したものではなく、終始一貫して、心でこころの学問をするというのである。

【語義】
等⇒段階のこと。

【付記】
このことばが掲載されている「言志耋録(げんしてつろく)」のはしがきに、佐藤一齋先生が自ら『自分は今年八十歳になって もまだ目も耳もひどく衰えるまでには至っていない。なんとこれ幸いなことであろうか。一息でもある限り、学業をやめるべきではない。 』と書かれておられます。

そうして八十歳から一条づつ書き綴られたものが一編となり、これを耋録とされました。 耋(てつ)とは八十のことですが、この老師のことばに生涯学び続ける大切さと勇気を教えていただけます。 あの明治維新の偉傑である西郷南洲(隆盛)は、この「言志四録(言志録は四編あります)」をたいへん愛誦し、101条を抄録したものを金科玉条として座右の銘にされたそうです。 人生の究極の目的は「人格的完成」です。

が、そのために、年齢、時代に応じてさまざまな職務などに就いて自らを磨いていくことになるのですが、その道は決して平坦とは言えず、また、なま易しいものではありません。 厳しい人生を生きぬくために、先人、古人の智慧をまずは書物を読んで学びます。 それを行動にうつしてみて体験的に了解されると、さらに書物に書かれてある真意が解ってくるものです。

つまるところ、初めの段階からその精神性を学んでいたのだと了解してきたとき、人間的に成長、成熟しているものです。 知識を得るだけが学びでなく、人生を学び続けていないと、人生の目的と目標を勘違いしたままになったり、また自分が生涯にわたり成長するものだ、ということをないがしろにしてしまいかねません。注意が必要です。

ちなみに仕事することを「はたらく」と言いますが、「はた(周りの)の人を楽にする」ことから「はたらく」という言葉になったそうですが、何のために生きるのか、という哲学的な問いの答えのようでもありませんか?   (華)

7月のことば 2008年度(戊子,年盤/一白中宮) 7]月(月盤/三碧) 7/7〜8/6
【財の使い方】
財を理(おさ)むるには、当に何の想を著(つ)くべきか。余謂う、「財は才なり。当(まさ)に才人(さいじん)を駆使する如く然(し か)るべし」と。事を弁ずるは才に在り。禍を取るもまた才にあり。慎まざる可(べ)けんや。
佐藤一齋   言志四録(一)より

【訳文】
財貨を整え、治めて、利益あるように運用するにはどう考えたらよいだろうか。これについて私はこう言おう。「財は才である。 だから才能のある人を使うのと同じようにしたら良い」と。事を処理するのも才である。禍を取るのも才である。よく慎まなければならない。

【付記】
財は世のため、人のために使うもので「財」に使われてはならないものです。財のために健康を害したり、また品性を卑しく したりしては話しになりません。 一齋先生のお考えはまことに結構なことと思います。

ここでもうひとつ、これに関連して寒山の詩を紹介しておきます。(訳詩は延原大川氏 )

「財 禍」
貧人(たんじん)好んで財を聚(あつ)む
恰(あたか)も梟の子を愛するが如し
子大なれば母を食う
財多くして還って己を害す
之を散ずれば福生じ
之を聚むれば即(すなわち)禍起る
財無く亦(また)禍無くんば
翼を青雲の裡(うち)に鼓(こ)せん

この訳は次のとおりです。
貪欲者は好んで金をためる。
ちょうど梟が子を愛するようなものだ。
梟の子が大きくなると母を食う。
財産がたまると己を害する。
財産をうまく使えば福が生じ
集めっぱなしだと禍が起る。
財産も無く、禍もなければ鳥が大空を飛ぶようなものだ。

まさにこのとおりだと思いませんか? 我われ人間が執着するものに、財貨、名誉、愛情などいろいろありますが、ことにお金や財産につい ては、はなはだ強いものがあるようです。 なぜ、そのようにお金を必要とするのでしょうか?少し、自分の心の奥底を省察してみる必要があります。

財は人間が生きて行くうえでは 必要なものですが、あの世に持っていけるものでもありませんし、有り余るほどは不要です。かえって財産目当ての詐欺や殺人の禍に遭わ ぬともかぎりません。大切なのはそのお金の活かし方を知っておくことのようです。

「諸苦の諸因は、貪欲これ本なり」と仏教経典のなかに言われているように、必要以上に貪る心が、結局は自分の身の破滅となるのだ、とわきまえておくことが肝要かと思います。
貪欲は人間としても品性を欠くこととなります。この短い人生で何が重要で何が無用なのか、を わきまえて鳥のように自由に飛びたいものです。そうでないと肝心な人生の時間を六道輪廻させるだけで、結局その報いは自分が受けるのですから。  (華)

8月のことば 2008年度(戊子,年盤/一白中宮) 8月(月盤/二黒) 8/7〜9/7
【順境と逆境 (二則の二)】
余意(おも)う、「天下の事、固(も)と順逆無く、我が心に順逆あり」と。我が順とする所を以って之(こ)れを視れば、逆も皆順なり。我が逆とする所を以って之を視れば、順も皆逆なり。果して一定有らんや。達者に在りては、一理を以て権衡(けんこう)と為し。以て其の軽重を定むるのみ。 佐藤一齋   言志後録より(川上正光著)

【訳文】

自分は「世の中のことそのものは順逆の二つがあろうはずはない。その順逆は我が心、自分の主観にあるのだ」と思う。自分の心が順であれば、他人が見れば逆境だと思っても、自分にとっては順境である。反対に自分の心が逆であれば、他人が順境だとしても、自分にとっては逆境である。果たして順逆は一定しているのだろうか。(一定しているとは思わない。) 道理に達した人にあっては、一貫した道理をはかりとして、物事の軽重を定めるだけのことである。(従って順とか逆とかは眼中にない。)

【語義】 ●達者→道に達した人。
●一理→ここでは順逆関係なく存在する一貫した道理。
●権衡→秤り(はかり)。

【付記】
「裏をみせ 表をみせて 散るもみじかな」 という良寛さまの句があります。人生は表と裏が 一体となって現れる舞台、目先の損だ、得だ、といって右往左往するより、いま、ここをしっかり受けとめて生きることが大切と、この句から考えさせられます。陰も陽もひとつ、一体で大極なのですから。

要は、自分の人生の目標と目的をしっかり見極め、自己を究明する旅、つまりかけがえのない自分独自の進路を、ひたすら前進して行ければいいですね。運勢のよいときには驕らず、高ぶらず、また運勢のわるいときには、卑屈にならず我慢強く、そしていかなるときも神仏や周りに感謝することを忘れない謙虚な人は必ず真に人間的成功を収めていらっしゃいます。ぜひともその心がけを真似び(学び) たいものです。(華)

9月のことば 2008年度(戊子,年盤/一白中宮) 9月(月盤/一白) 9/8〜10/7
【知行合一】
心につきて知と曰う、知は即ち行(こう)の知なり。身に就(つ)きて行と曰う、行は即ち知の行なり。たとえば猶お人語を聞きて之(こ)れを了するがごとし。諾は口に就き、頷(がん)は身に就けども、等しく是れ一了字なり。 佐藤一齋   言志耋録より(川上正光著)

【訳文】
心については知といい、その知は行わんがための知である。身体については行といい、その行は知るところのものを行うのである。例えば、人のことばを聞いて、これを了解するというようなものである。この場合、口では「承知した」といい、体では「うなずいてみせる」がいずれも了解したということである。(知と行はこんなもので、心について言えば知、身について言えば行で、別物ではない。知行合一の理の入り口を言ったものである。)

【付記】
この「知行合一」は、もとは王陽明の確立した思想です。この言葉は耳慣れておられることと思います。

さて、「知行合一とは何か?」という問いに、王陽明は「知って行なわざるは未だこれ知らざるなり」と答えています。「知」とは「知ること」で、即ち知識を得ること、学ぶことを意味し、「行(こう)」とは「行なうこと」で、即ち行動することを意味しています。「合一(ごういつ)」とは「一(いつ)にする」という意味です。

従って、「知行合一」とは、王陽明が「知は行の始め、行は知の成るなり。知行は分かちて両事と作(な)すべからず」、すなわち「知行は連続して一体のものであり、知行は二つに分けることが出来ない」と述べています。「いくら知識があっても、知識が行動に伴なっていなければ何の意味もなさない」というものです。これは多くの経営者などが経験知として、また信条としてもっていることです。

また陽明学の根本思想は「親に対する孝」であると言われています。その孝とは何でしょうか?これを熟考すると「人としての生き方に到達する」ということです。「孝」とはまさに実践が伴わなくてはあり得ません。陽明学は、この「孝」を中心に据えて、人間関係を考えていたようです。「有言実行」という言葉がありますが、「言葉にしたことは必ず実行する」ということは極めて陽明学的思考で、陽明学が行動の美学と言われている所以です。

実行するところに学問を価値付けすることによって、陽明学は人々から信頼され信望の厚い行動派知識人を多く育くみました。この陽明学派に、冒頭の佐藤一齋、中江藤樹、熊沢蕃山、大塩平八郎、佐久間象山、河井継之助、吉田松陰、高杉晋作、山県有朋、西郷隆盛、乃木希典、三島由紀夫、安岡正篤らが、ご承知のように幕末、明治から今日の時代を大きく動かしました。 (華)

10月のことば 2008年度(戊子,年盤/一白中宮) 10月(月盤/九紫) 10/8〜11/9
【敬は終身の孝である】
人道は敬(けい)に在り。敬は固(も)と終身の孝たり。我が身は親の遺たるを以ってなり。一息(いっそく)尚(な)お、存ぜば自ら敬することを忘る可(べ)けんや。 佐藤一齋   言志耋録より(川上正光著)

【訳文】
人の履(ふ)み行うべき道は「敬」にある。「敬」はいうまでもなく一生涯の孝行である。自分の体は父母が自分に残されたものであるからである。だから、一息でもある間は、自ら「敬」することを忘れてはならない。

【付記】
本文に関係する「孝経」について紹介します。
「身体髪膚(はっぷ)之を父母に受く。敢えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の始めなり。身を立て道を行い、名を後世に揚げて、以って父母を顕わすは孝の終わりなり。」

陽明学の根本思想は「親に対する孝」です。この「孝」を中心に据えて、人間関係を考え、人としての生きかたに到達していく、と前月、記しました。

その「孝」の道とは「敬」ということです。「敬」とは、他人に対しては「敬う」ことであり、自己に対しては「慎む」ことです。「孝」の思想は人間関係を緊密にします。
「人間は何のために生まれてきたのでしょうか…。」
それは自分にとって大切な人々と「絆」を結ぶためなのです。

昨今は親殺し、子殺しはおろか、他人の生命を「人生がつまらない」「むしゃくしゃしていた」などの理由でいとも簡単に奪ったり、生命へ危険を及ぼす食品や薬品などを利益を得るだけの目的で製造販売するなど、枚挙に遑(いとま)がありません。

なぜ、「大罪」を犯すような、モラルが低下してきているのか残念というより、危機感を覚えます。ただ本能の赴くままに、言いたい放題、したい放題です。縦横の関係性を無視した自己本位な自己主張の人間が増殖してきています。嘆かわしいことです。これはひとつには「ヒトを人に育てる」という真の意味での社会、地域、学校、家庭における教育力が大きく減退してきていることが挙げられます。

宮崎県の東国原知事ではありませんが「なんとかせにゃならんと!」です。せめて我々ができる草の根的なことは、陽明学のいう「孝」や「敬」の根本思想を可能なかぎり、一人でも多くの方に伝えていくことで、将来に「人間としてどう生きるか」を心得た次世代の人物が多く輩出されていくことにある、と考えています。いま、時代は大きな転換期にあります。日本の伝統的な国民性や文化を大事にして、ひとりひとりが本質的な生き方に戻ることをこの混迷した時代から要請されているのではないでしょうか?(華)

11月のことば 2008年度(戊子,年盤/一白中宮) 11月(月盤/八白) 11/8〜12/7
【患難(かんなん)は才能を磨く】
凡そ遭うところの患難変故(かんなんへんこ)、屈辱讒謗(くつじょくざんぼう)、払逆(ふつぎゃく)の事は、みな天の吾が才を老(ろう)せしむる所以にして砥礪切磋(しれいせっさ)の地に非ざるはなし。 君子はまさに之を処する所以を慮(おもんばか)るべし。徒(いたず)らに之を免れんと欲するは不可なり。 佐藤一齋   言志耋録より(川上正光著)

【訳文】
われわれが出会うところの、苦しみ悩み、変わった出来事、恥(はず)かしめを受けること、人から悪く言われること、心に困ったと思うこと。これらのことは皆、天の神が、自分の才能を老熟させようとするもので、いずれも我が修得勉励の資でないものはない。だから、君子は、このようなことに出会ったならば、これをどう処理するかに工夫をこらすべきもので、これから逃げようとすることはいけないことである。

【語義】
●患難→苦しみ悩むこと。
●変故(へんこ)→変わったこと。
●屈辱→おさえつけ、恥ずかしめること。
●讒謗(ざんぼう)→そしり。
●払逆(ふつぎゃく)→心に合点のゆかないこと。
●砥礪(しれい)→砥は仕上げ石、礪はあらと転じて勉励。
●切磋→切は鑢(やすり)でとぐこと、転じて修得勉励。

【付記】
孟子に有名な次の句があります。
「天の将に大任を是(こ)の人に降ろさんとするや、必ず、まず、其の心志(こころざし)を苦しめ、其の筋骨を労し、其の体膚を餓(うや)し、其の身を空乏(くうぼう)にし、行其の為すところに払乱(ふつらん)す。心を動かし、性を忍び、其の能(よ)くせざる所を曾益(そうえき)する所以なり」

また、西郷南洲の有名な詩にも、「幾たびか辛酸を歴(へ)て、志始めて堅(かた)し、丈夫は玉砕(ぎょくさい)すとも、甎全(せんぜん)を愧(は)ず。」とあります。困難に遭遇したら、勇気百倍、これを克服するのが、男というものだ、と喝破されておられます。

12月のことば 2008年度(戊子,年盤/一白中宮) 12月(月盤/七赤) 12/8〜1/6
【実事と閑事】
今人率(こんじんおおむ)ね口に多忙を説く。其の為す所を視るに、実事を整頓するもの十に一、二。閑事を料理するもの十に八、九。また閑事を認めて以って実事と為す。宣(うべ)なり其の多忙なるや。志ある者、誤って穴を踏むこと勿(なか)れ。 佐藤一齋   言志耋録より(川上正光著)

【訳文】
いまどきの人は口癖のように忙しいという。(こんな多忙では、本も読んでいられないという) しかし、そのしているところを見ると、実際に必要なことをしているのは十のなかの一、二に過ぎず、つまらない仕事が十のなかの八、九である、そして、このつまらない仕事を必要な仕事と思っているのであるから、これでは忙しいのはもっともなことだ。ほんとうに何かしよう、と志のある者は、こんな穴に入り込んではならない。

【語義】
●実事→実際に必要な仕事。
●閑事→むだ事。
●料理→始末する。

【付記】
漢詩詩人の陶淵明のことばに「歳月人を待たず」というのがありますが、忙しさにかまけてうかうかしていると、あっという間に時は流れ去ります。今年も師走を迎え、一年を振り返り、みなさまはどのような感想をお持ちでしょうか?
「Time is money.」で上手な時間管理は、たった一度の人生を何倍にも豊かにしてくれるものです。誰にとっても「あぁ、もう少し時間があったら…」と思った経験もおありかと思いますが、時間は人生でなかなか大きな問題と思います。

さて、一生のその限られた時間、日々どのような過ごし方をしているのか、を一日時間を充てて、「生活構造時間調査」をしてみることはいかがでしょう? そうすると「忙しい」とか「時間が足りない」と感じている実態を、具体的に把握することができます。

まず1日の時間を、睡眠、仕事、通勤、交際、学習、休息、趣味、保健(風呂、美容、理容、散歩、通院など)、ボランティアなどの生活構造を調べ、さらに1週間、1ヶ月とざっと時間消費を調べて見ます。その中から生活時間の内容を把握し、いかに時間を使うかの問題意識を持てるといいですね。そうすることで、自分の人生の過ごし方や時間の活かし方がつかめて、日々の充足感、達成感も得られやすくなります。とくに受験などの願望実現には、時間をコントロールできることが鍵です。(華)