今月の言葉 2007年分
1、2月のことば 2007年度(丁亥、年盤/二碧中宮) 2月(月盤/二黒) 2/4〜3/5
自ら省察すべし
人は須(すべか)らく、自ら省察すべし。「天、何の故にか我が身を生み出だし、我をして果たして何の用にか供せしむる。我れ既に天の物なれば、必ず天の役あり。天の役共せずんば天の咎(とが)必ず至らむ。」 省察して此(ここ)に到れば則(すなわ)ち我が身のいやしくも生くべからざるを知らむ。 佐藤一齋   言志後録より

【訳文】
人間は誰でも、次のことを反省し考察してみる必要がある。「天はなぜ、自分をこの世に生み出し、何の用をさせようとするのか?自分は天(神)のものであるから、必ず天職がある。この天職を果たさなければ、天罰を必ずうける」と。
ここまで反省、考察してくると、自分はただ、うかうかとこの世に生きているだけでは済まされないことがわかる。

【語義】
●省察(せいさつ)⇒反省、考察。
●天役⇒天の命ずる役目。
●共する⇒役に立つ。

【付記】
天命を知るということは大変難しいことである。「自分が生きているのではない。生かされているのである。」ということを悟ること、これがわかれば立派な人である。 加藤咄堂(とつどう)氏は古人の言として「君子、一日生きれば一日世に利あり。」 の語を引いている。
また吉田松陰は、「一日世に在れば、一日為すあり」といった。何のために生きるかということは「人さまのために尽すためだ」ということの一語に尽きるであろう。(川上正光氏)

孔子のことばに「三十而立、四十不惑、五十知天命……」というのがある。天命を知るためには、志を立て、おおいに惑いながら人生経験をするなかで「このことで社会に貢献している、貢献できる」と確信できたらそれが天命。それはとてつもなくビッグなことでないかもしれない。が、なくてはならないかけがえのない存在なのである。 (華)

3月のことば 2007年度(丁亥、年盤/二黒中宮) 3月(月盤/一白)
子曰はく、学んで思はざれば即ち罔(くら)し。思ひて学ばざれば即ち殆(あや)ふし。(為政十五)

【解説】
本を読んだり人に聞いたりして広く学んでいても、その内容を熟慮して思索するのでなければなにごともはっきりしない。逆にあれこれと思索するだけで外からの知識を求めなければ、独断におちいって危険である。あるいは迷うだけである。

学と思とは、車の両輪のように、併行してすすめられる必要があるという。「荀子」勧学篇には「小人の学は耳から入って口から出る。口と耳との間は四寸のみ」というのがあるが学んだことをよく考えもせずに受け売りするだけでは、身についた学問にはならない。

あるいはまた、衛霊公篇三では、孔子は自分のことをたくさん学んでそれを覚えているだけの人間ではなくて「予(わ)れは一以てこれを貫く...ひとつのことで貫いている」と言っている。受け容れたものを思索して、ひとつの標準で統一性を与えることである。ただ、学と思とを並べてどちらかと言えば、やはり学のほうが基礎となるべきものであった。
「一日じゅう食事もせず、一晩じゅう眠りもしないで考えたことがあったが、無駄であった。学ぶことには及ばない」という述懐(衛霊公三一)がそれを示している。 孔子 (金谷 治著より)

【語義】
●「学」⇒本義は本を読み、教えを聞く外からの習得をさす。
●「罔(もう)」⇒昏罔(こんもう)で無知のさま。
●「殆」⇒危うくして安からず、と読むのは新注の説。王引之(おういんし)は疑の意味にみて、疑いて定むる能(あた)わず、ととる。「まどう」と読むことになる。

【付記】
「論語読みの論語知らず」ということばある。書物に書いてあることを理解するだけで、実行が伴わない者のことを言うが、高学歴時代の昨今、知識と行動が乖離(かいり)した人が多いことに驚かされる。
理屈は分かっていても、実際にやろうとしなかったり、出来ずにいるのは「思」が勝って、真に学べていない、ということになりはしないか?
「学」が生きるのは現実の人生において実践かつ活用されていることである。今一度、「学」の真の意味を問われなければなるまい。(華)

4月のことば 2007年度(丁亥、年盤二黒中宮) 4月(月盤/九紫)
【花−已(や)むを得ずして発するもの】

已(や)むを得ざるに薄(せま)りて、而(しか)る後に諸(これ)を外に発する者は
花なり。

佐藤一斎  言志四録より

【訳文】
準備万端ととのって、やむにやまれなくなって、蕾を破って外に咲き出すのが花である。

【付記】
花は人にほめられるために咲くのではない。
蜂や蝶のために咲くのでもない。自然に木や草の精気がこり固まって、やむを得ずして咲くものだ。
山奥の岩陰に美しい花を見つけた時などは、どうしてこんな処にこんな綺麗な花を咲かせているのだろうとふと思うが、これはあまりに自分本位な考えだなあと思い返すことがある。

吉田松陰が…、
『 かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂 』
と歌ったのも、内にみなぎる大生命の発露であろう。われわれの仕事や作品や行動も、内からほとばしり出る、やむにやまれぬ精神の発露の場合、それは外からは花のごとく美しく見えるものである。(川上正光氏)
花−已(や)むを得ずして発するもの まことに奥深いことばである。
今年も近くの千鳥が淵に桜の季節が到来し、その美しさに心酔し、感動する。
それは花の美しさに感動しているようで、実はうちからほとばしり出ている命そのものの
輝き、はたらきに感動するのだ、と痛感する。
「生かされている」ということに心から感謝したいと思う昨今だ。 (華)

5月のことば 2007年度(丁亥、年盤/二黒中宮) 5月(月盤/八白)
我等何の為に学ぶや。
『荀子』に曰く、「夫(そ)れ学は通のために非ざるなり。窮して苦しまず、憂えて意(こころ)衰えざるが為なり。禍福終始を知って惑わざるが為なり」と。此の語、能(よ)く学理真髄を説けり。


【解説】
我々は何のために学ぶのか…。
荀子は、本当の学問と言うものは、立身出世や就職などのために(通になるため)ではなく、「窮して苦しまず、憂えて意(こころ)衰えず、禍福終始を知って惑わざるがためなり」と説いている。窮して苦しまないということ、憂えて心衰えないということ、何が禍いであり、何が福であり、どうすればどうなるかという因果の法則―禍福終始を知って、人生の複雑な問題に直面しても、敢えて惑わない、という3条件を提出している。

これは我々にとってまことに痛切な教えであり、学問の第一条件はまさにここにある。窮する、心配事というものは人間として常にあることで、世に処する以上、免れないことである。しかしそれだからと言って精神的にまいってしまう、ということでは我々の人格の自由や権威はないのである。

戦前、アメリカで大学の心理学者、精神分析家たちが学生、社会人の生活と精神状態の調査報告を出した際、そのなかの重大項目として、我々が何か困難や失敗に直面したとき、心に不安、動揺が生じてもそれを抑え、処理し、平然として変わらずに仕事ができるか
どうか―――。

これは人格を決定する、自己の価値を決める問題としてきわめて重要な項目として挙げられていた。これができてはじめて我々の人格に「主体性・自主性・自立性」即ち、自由というものができたことになる。 (知名と立命―安岡正篤より)


【付記】
人生において真の学びとは何か、非常に大切なことが問われている。
「人間万事塞翁が馬」という人口に膾炙(かいしゃ)されていることばがある。
苦楽はあざなえる縄の如し、で何が禍いでなにが福なのかはなかなか判らぬものである。

我々はつい目先に心を動かされるが、人生上に起きてくることはみな、意味がある。現実に生起することを受け容れ、創造していくことが大切であろう。

人間の生の営みというものは、限りなく創造発展してゆく力である。心身の発達段階において、いつでも将来まさに実現しよう、達成しようとするものを意識し、自覚することが大切だ。ただの空想から理想実現に向けてひたむきに生きたいものだ。(華)

6月のことば 2007年度(丁亥、年盤/二黒中宮) 6月(月盤/七赤)
「達人の見解」  言志四緑(二)より
人の一生遭う所には、険阻(けんそ)有り、坦夷(たんい)有り、安流(あんりゅう)有り、驚瀾(きょうらん)有り。是れ気数の自然にして、竟(つい)に免(まぬが)るる能(あた)わず。すなわち易理なり。人は宜しく居って安んじ、玩(もてあそ)んで楽しむべし。若し、之を趨避(すうひ)せんとするは、達者の見に非ず。

【訳文】
人の一生の間に出会うところは、道路にたとうれば、険しいところもあり、平坦なところもあり、また水路にたとうれば、穏やかな流れもあり逆巻く大波もある。
こういうことは命運の自然で、どうしても免れることのできないことである。すなわち易に説かれた道理である。
それであるから、人は自分の居る処に安んじ、これを楽しめばよい。もし、これを趨(はし)り避けようとするのは決して達人の見識ではない。

【語義】
●険阻(けんそ)→けわしいこと。
●坦夷(たんい)→二字ともたいらかなこと。
●安流(あんりゅう)→穏やかな流れ。
●驚瀾(きょうらん)→逆巻く大波。
●気数→めぐり合わせ。自然の成り行き。
●趨避(すうひ)→はしりさける。
●達者→広く事理に通達している人。
●見→見解、見識。

【付記】
人生は平坦ではない。これに関するいくつかの古人の言葉をしるしてみよう。徳川家康の遺訓の最初に「人の一生は重き荷を負って遠き道を行くが如し、急ぐべからず。」とある。

また、古歌には
「越えなばと 思いし峰に 来て見れば、行く手はなおも 山路なりけり」とある。

なお、後録69条および耋録135条に述べられているように、昔賢曰く、「楽は心の本体なり」と悟ればいかなる状態にあっても、安らかに世を渡ることができる、というものであろう。
釈尊も「人生とは苦なり」と喝破され、その苦をいかに、ものの見方、考え方、受け止め方で苦難などから逃げず乗り越えて「楽」にしていくかが人生の醍醐味となるのではなかろうか…。これこそ道楽! (華)

7月のことば 2007年度(丁亥、年盤/二碧中宮) 7月(月盤/六白)
【運命を逃るる能(あた)わず】
気運に小盛衰有り。大盛衰有り。その間、亦(また)迭(たが)いに倚伏(きふく)を相成すこと、猶(な)お海水に小潮有り、大潮有るがごとく、天地間大抵(てんちかんたいてい)、数(すう)を逃るる能(あた)わず。即ち活易なり。

佐藤一齋   言志四録(一)より
人の一生遭う所には、険阻(けんそ)有り、坦夷(たんい)有り、安流(あんりゅう)有り、驚瀾(きょうらん)有り。是れ気数の自然にして、竟(つい)に免(まぬが)るる能(あた)わず。すなわち易理なり。人は宜しく居って安んじ、玩(もてあそ)んで楽しむべし。若し、之を趨避(すうひ)せんとするは、達者の見に非ず。

【訳文】
世の中の廻り合わせには、小さな盛や衰もあれば、大きな盛や衰もある。その間にまた、福と禍が互いに混じり合っていることは丁度、海の水に小さな潮があったり、大きな潮があるのに似ていて、天地間のことは大抵この運命を免れることができないものである。これを知るのが活きた「易」であると考える。

【語義】
●気運(きうん)⇒廻り合わせ、運命。
●倚伏(きふく)⇒老子に「禍や福の倚(よ)る所、福や禍の伏する所」とある。
●数(すう)⇒運命、天命。

【付記】
漁師が潮の満干や流れをあらかじめ知って漁をするのと同じで、気運をあらかじめ知っておいて行動することは自然に調和していくことにほかならない。

自然や生起している現実を受け容れ、気運を予知して時機を待つことが大切、と思える。
近代科学は自然超越を試みてきたが、現代の科学は大自然の営みと人間の生活を融合させようと、「自然にやさしい」などと変容してきた。

自然の超越をある程度、克服したかのように思えるが、めぐりめぐってそのつけが人間や地球にはね返ってきている。地球の環境問題のなかにも、またしても天命を知るということは大変大切なことだと痛感する。

「自分が生きているのではない。生かされているのである。」ということを悟ること。これをいたるところで佐藤一斎は説き遺している。 (華)

8月のことば 2007年度(丁亥、年盤/二碧中宮)8月(月盤/五黄)
【施恩は忘れよ、受恵は忘るな】

我れ恩を人に施しては、忘る可(べ)し。我れ恵みを人に受けては、忘る可からず。
佐藤一齋 言志耋録より

【訳文】
自分が恩を人に施した場合は、これを忘れてしまうがよい。しかし、自分が恵みを受けた場合は決して忘れてはいけない。

【付記】
とかく、世間一般には反対で、人に施した恩は忘れず、受けた恵みを忘れがちである。本文はこれを戒めたものであろう。

また本文に関連して、「菜根譚」前集五十二に次のように
ある。
「恩を施す者、己れを見ず、外、人を見ざれば、即ち 斗粟(とぞく)も万鐘の恵に当たるべし。物を利する者、己れの施を計り、人の報を責めなば、百鎰(ひゃくいつ)といえども一文の功を成し難し。」
(施しは、自分が気取らず、相手をも見なければ、五、六升でも何万石に当たるだろう。用立てもソロバンはじいて利息をとるなら、百万円でもビタ一文に及ぶまい。) 

われわれの日常生活にも心当たりのあることで、人に恩を受けて感謝し、与えて喜びとする、すがすがしい生き方がなかなかできないものである。
どのように生きるか、を教える宗教ではほとんど、愛とか慈悲に象徴されるように、まず「与える」ことが説かれている。
物理的循環法則で与えれば自分になにかしらのエネルギーが還ってくるものだ。与えること、そして感謝することが現代人の心に希薄に感じるが、遺憾である。(華)

9月のことば 2007年度(丁亥、年盤/二碧中宮)9月(月盤/四緑)
【少にして学ばざれば、即ち壮にして惑う】

朝にして食(くら)わざれば、即ち昼にして饑(う)え、少にして学ばざれば、即ち壮にして惑う。饑うる者は猶(な)お、忍ぶ可(べ)し。惑う者は奈何(いかん)ともす可(べ)らず。
佐藤一齋   言志耋録より

【訳文】
朝、食事をしなければ、昼には空腹を感ずる。同じように、少年時代に学問をしておかないと、壮年になって、物事の判断などに惑うことになる。空腹であることはまだ辛抱ができるけれども、知識がなくて事の判断に惑うのにはどうにもしてやれない。(著者 川上正光氏)

【付記】
私が座右の銘にしている言葉がある。
晩録に、「学は一生の大事」という抄で「少にして学べば、即ち壮にして為すこと有り。壮にして学べば、即ち老いて衰えず。老いて学べば、即ち死して朽ちず。」というのがある。

少年の時に学んでおけば、壮年になってそれが役に立ち、何か為すことができる。壮年のときに学んでおけば、老年になっても気力の衰えることがない。老年になっても学んでいれば、見識も高くなり、より多く社会に貢献できるから死んでもその名の朽ちることはない、という意味である。

役に立つ学び方、役に立たない学び方があるにしても 頭を使っている人は長生きである、とも言われる。学ぶ年代の少、壮は実際的年齢をいうのでなく、気持ちとしての年齢と受け止めておればいい、と思う。

探究心、好奇心、は脳を活性化し、日々、成長する。最近の学問に生涯発達心理学というのがあるがまさに人は生涯発達し続けていく。人生をボーと過ごし、サボらないよう肝に銘じたいものだ。

10月のことば 2007年度(丁亥、年盤/二碧中宮)10月(月盤/三碧)
【胸次虚明(きょうじきょめい)なれば、感応神速(かんおうしんそく)なり。】 佐藤一齋   言志耋録より

【訳文】
胸中がからっぽで透明であるならば、(万事に誠の心が通じ)その感応は実に神のごとく迅速である。

【付記】
本条は短文ですが意義は非常に深いものです。
それに関連して川上正光氏が述べておられることがありますので簡略に記します。

(1) かつての阪大学長の釜洞博士の遺文集「青雲」に、博士が「人物とは何か」と2,3の人に尋ねられたところ、司馬遼太郎氏が「人物とは、何か真空の部分があって、それが人を引きつける」 のだと答えたという。これを逆にいえばいっぱい我欲がつまっていては、人は寄り付かない、ということだろうか。

(2) 「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」 ということについて述べておこう。読み下すと「まさに住するところなくして、その心を生ず」ということで、ひらたく言えば「こだわりのないところに、悟りの心が生ずる」ということである。この意味を学ぶべく求道のため慧能禅師が弘忍禅師(こうにんぜんじ)を訪ねて黄梅山に行ったところ、
「お前は何処の人か。」
「広州から参りました。」
「何しに来たか。」
「ただ作仏(さぶつ)を求めて余物(よぶつ)を求めず。」
この一語、まさに人生の意義をずばり表明したものではなかろうか。

すると弘忍禅師は「お前のような田舎猿がどうして仏になれるか」とたしなめられると、
「人に南北ありといえども、仏性もと南北なし。田舎猿の身、和尚と同じからざるも、仏性何の差別かあらん」と直ちに答えられた。
そこで禅師は慧能を見所のある者だとして入門を許された。
あにはからんや、この慧能さんが、中国禅の開祖といわれるようになるのである。
(著者 川上正光氏) 

ところで、私たちの日常にはあらゆる現象を通して、自ずから煩悩という諸々の心を乱すことが頻繁に生じてくるものですが、人生の目的が何か…ということをしっかり捉えていれば心騒がず心平らに淡々と日々を送ることができるのです。

菅原道真公のお歌に「心だに 誠の道に 叶ひなば 祈らずとても 神や護(まも)らん」 というのがあります。
もともと私たちの心は「無」の状態。それを忘れて自分なりのいろいろな思い方、考え方、受け取め方をしてしまい、妄想を抱き、ついには殺傷にまで至る事件が起きたりします。

高田好胤和尚が「働く、ということは、はた(周りということ)を楽にすること」だと仰っておられました。
我見ですが「楽にする」とは「感動と愛を与えること」だと思うのです。
昨今は与えずして、相手に求め過ぎるうえに、むさぼり奪うことばかりに心が捕われているが人が多くなっています。
「与えること」と「与えられること」の絶妙なバランスが仕事であり「働く」ことだと思うのです。(華)

11月のことば 2007年度(丁亥、年盤/二黒中宮)11月(月盤/二黒)11/8〜12/6
【人を観るには、徒(いたず)らに外其(そとそ)の容止に拘(かか)わること勿れ。須(すべか)らく之(こ)れをして言語せしめ、就きて其の心術(しんじゅつ)を相(そう)すべくば可なり。先ず、其の眸子(ぼうし)を観、また其の言語を聴かば、大抵かくす能(あた)わじ。】 佐藤一齋   言志耋録より

【訳文】
人物を観察するには、いたずらにその外見上の姿かたちにとらわれてはいけない。是非その人に話をさせて、それについて心の動きを観察するがよい。 まずその人の瞳子(ひとみ)を観察し、またその人の話をきけば、その人は大抵、その心中をかくすことは出来ない。

【語義】
●容止(ようし)→身のこなし、振る舞い。
●心術→気立て、心持。 相す→観察する。
●眸子(ぼうし) →ひとみ。

【付記】
中国においてと古来「人物観察法」が研究されていたようである。たとえぱ、「呂氏春秋」の六験・八観。「六韜(りくとう)」の竜韜篇の八徴法など参考になるものが多い。

ところで「眸子(ぼうし)=瞳」といえば、忘れられない人がいます。かつて大学在学のおり、時間構造論を担当されていた70歳を超えた女性の教授がいらっしゃいました。
若いころからおそらく美人とは呼ばれては来なかった、と思われる容貌でしたが、ご高齢になっても研究し、学び続けている先生の瞳は湖のように美しく透んでいました。
きらきら輝くその瞳は、知性と教養にあふれていて、その深遠さにいささかたじろいだことが思い出されます。

「眼は口よりものをいい」と言いますが、眼はコミュニケーションのみならず、何の説明がなくてもその人自身が、その人の魂までがにじみでるものだということを、いたく感慨深く思ったものです。高齢化社会進行中のわが国、今後は団塊の世代以上の高齢者の生き方が日本を大きく左右するのではないでしょうか。

生涯学習時代といわれて久しいですが、死ぬ瞬間まで一歩一歩自己成長を遂げたいものです。 ならば、若い人には資格取得の学習などはもちろんですが、それ以上に人生というものの学びを、なお一層深めていただきたいと願うものです。 (華)

12月のことば 2007年度(丁亥、年盤/二黒中宮)12月(月盤/一白)12/8〜1/6
【静坐する数刻の後、人に接するに、自ずから言語の叙(じょ)有るを覚(おぼ)ゆ。】 佐藤一齋   言志耋録より

【訳文】
静座して数時間後に人に接すると、自然に話すことばが筋道が立っていることに気づくものである。

【語義】
叙(じょ)→ここではことばの筋道が立つようになること。

【付記】
このことは何事をなす場合にも効果がある。講演や演説の場合にもその前に五分でも十分でも静坐して心を静めるよい。釈宗演(しゃくそうえん)老師の場合は、講演前は一切面会を避けて坐禅をし、講壇に立つと先ず聴衆に しばらく静坐させてから、話を始められたということである。

自分の考えていること、あるいは主張、説明、営業活動など、人に理解を得るために「話す」ことは けっこう難しいものです。 人はそれぞれが個性豊かでそれぞれの性質や思考をしていますので、 こちらの話すことが思うように相手にきちんと伝わる、とは限りません。 むしろ伝わらない、ほうが多いかも知れません。

そのようなとき、自己主張して、 自分の話したいことばかり前面に押し出す、というのはいかがなものでしょうか? 相手のおかれている環境、状況を見定める冷静さが必要になってきます。 相手やその場の空気を読み取り、しかるべき行動を確実にするために、たとえば大事な面接交渉時、 講演、講義などのまえには5分間の静坐を行い、呼吸を整えたいものです。 立ち騒ぐ「気」を静め、丹田に「気」をあつめ、ものごとに動じない体制をつくりましょう。 ちなみに合気道も居合道も「受身」が基本、人生も「受身」の大切さを識り、避けられないことは 喜んで引き受ける、ことが肝要と痛感します。 (華)