今月の言葉 2006年分
二月のことば 二〇〇六年度(丙戌、年盤/三碧中宮) 二月(月盤/五黄)
「学」は諸(こ)れを古訓に稽(かんが)え、「問」は諸れを師友に質(ただ)すことは、人皆これを知る。学は必ず諸れを躬(み)に学び、問いは必ず諸れを心に問うものは、其れ幾人有るか。
佐藤一齋   言志四録(二)より

【訳文】
学問の「学」は古人の注釈を今にくらべ合わせ、「問」の方は師なり友なりに質すことは人皆知っている。しかし「学」は必ずこれをわが身に実行し、また「問」は自分の心に問うて反省自修するという一番大切なことを行っているものは果たして何人いるだろうか。(稽は考察する、くらべるの意)

【付記】
二宮尊徳の言葉を引用すると「書を読んで身に行わない者は、ちょうど鍬を買って、耕さないのと同じであり、耕さなければ、どうして鍬を買う必要があろうか。行わなければどうして書を読む必要があろうか。書を読む者はぜひとも人を済(すく)う心がなければならない。書は人を済う道を書きのせたものであるのでこれを読んでその心を存しなければなんの益があろう」つまり学問は活きていなければならない、ということである。くれぐれも頭でっかちにならぬよう「知行合一」を深く心したいものである。(華)

三月のことば 二〇〇六年度(丙戌、年盤/三碧中宮) 3月(月盤/四緑)
「知」は是(こ)れ「行」の主宰にして、乾道(けんどう)なり。行は是れ知の流行にして、坤道(こんどう)なり。合して以って体躯をなせば即ち知行なり。是れ二にして一、一にして二なり。
佐藤一齋   言志四録(二)より

【訳文】
(人には知と行との二つの働きがある、ところで)知は行を司るものであるから天道である。
行は知から流れ出たものであるから地道である。
この二つが合して我々の体を形成しているもので、知って行わなければ真に理にかなった行とはいわれず、行うて知を験(ため)さなければ、真の意味で知ったとは言われない。
このように知と行とは二つにして一つであり、また一つであるが二つでもある。

【付記】
本文は王陽明の「知行合一」を説明したものである。
知は一般にしっていること即ち知識と解されているが川上正光(言志四録訳者)氏は「知」はむしろ「智慧」と解したほうがよいように思うと記されている。まさに同感である。
学歴と教養を混同することと似ている。人生の目標と目的の取り違えも同様である。(華)

4月のことば 2006年度(丙戌、年盤/三碧中宮) 4月(月盤/三碧)
心と身を養うには...
「礼義を以って心を養うは、即ち躯体を養うの良剤なり。心、養を得れば即ち身、自ず (おのず)から健なり。旨甘(しかん)を以って口腹を養うは、即ち心を養うの毒薬なり。心、養(やしない)を失えば即ち身も亦病む。

佐藤一齋   言志四録(二)より

【訳文】
人は立居振舞をもって、(ただ外面にあらわれる形式的なものとしないで)精神修養の手段とすることは、身体を養う良薬である。(何故ならば)精神を修養するならば、身体が自ずから健全になる(からである)。反対にうまいもので口腹を養うことは、精神修養の毒薬である。(何故ならば)精神が修養を欠けば、身体が衰弱して遂に病気になる(からである)。

【語義】
●礼義(と礼儀)...礼義は挙動や所作、礼儀は作法、礼はその大なるもの、
儀は小なるもの。
●旨甘...美味。
●口腹...飲食のこと、あるいは肉体。

【付記】
本条に関連してギリシャ語のMens sana in corpore sano! を思い出す。
英語ではSound mind in sound body! という。
このことをよく「健全な身体に、健全な精神が宿る」というが、これは間違いだ。
本当の意味は「健全な心」と「健全な体」はなかなか両立しないから、ギリシャ人はこの二つをともに与え給え、と神に願ったのだそうだ。
むしろ、「精神が健全であれば、病気をしないで長生きする」ということが本当であろう。(川上先生) ...はじめに心ありき、というよりはじめに身体あり。
心身の相関関係を考えるとまず容器(身体)を鍛えれば自ずから精神が定まってくると
痛感。(華)

5月のことば 2006年度(丙戌、年盤/三碧中宮) 5月(月盤/二黒)
人生行路...

「人の世を渉(わた)るは行旅の如く然(しか)り。途に険夷(けんい)有り。日に晴雨ありて、畢竟(ひっきょう)避くるを得ず。只(た)だ、宜しく処に随(したが)い時に随い相緩急(あいかんきゅう)すべし。速(すみやか)ならんことを欲して以って、災いを取ること勿(なか)れ。猶予して以って期に後(おく)るること勿れ。是れ旅に処するの道にして即ち世を渉るの道なり。
佐藤一齋   言志四録(二)より

【訳文】
人が世を渡るのは、旅行するようなものである。旅行の道中には、険阻(けんそ)な所もあり、平坦な所もあり、また日によって晴もあり、雨もあって、結局これらは避けることができない。ただその所、その時に従って、旅程を緩めたり、急いだりするがよい。余り急いで、災いを受けてはいけない。またゆっくりして期日に後れるようでもいけない。これが旅をする心得であり、同時に世を渡る道でもある。

【語義】
●渉世...世渡り。
●行旅...ここでは旅行。本来は旅人。
●険夷...険しいところと平坦な所。
●緩急...ゆっくりしたり急いだり。
●猶予...ぐずぐずすること。

【付記】
白楽天の詩の一節に...

富貴も亦苦しみあり、苦しみは心の杞憂にあり

貧賎も亦楽しみあり、楽しみは身の自由にあり

人生の達観であろう。

6月のことば 2006年度(丙戌、年盤/三碧中宮) 6月(月盤/一白)
日日の心得

志気は鋭からんことを欲し、操履(そうり)は端(ただ)しからんことを欲し、品望は高からんことを欲し、識量は豁(ひろ)からんことを欲し、造詣は深からんことを欲し、見解は実ならんことを欲す。
佐藤一齋   言志四録(二)より

【訳文】
心の勢いは鋭くありたく、行いは端正でありたく、品位や人望は高くありたく、見識や度量は広くありたく、学問・技芸のきわめ方は深くありたく、ものの見方や解釈は真実で
ありたい。

【語義】
●志気...いきおい、元気。
●操履...とり守りふみ行うこと。
●品望...品位と人望。
●識量...見識と度量。
●造詣...学問・技芸など深く窮めること。
●見解...物の見方。

【付記】
心ころころ、と転がって一時も一定ではない。心に心許すぺからず。人に驕らず、人を侮らず、その人の品格は心の忍耐という鍛錬からにじみ出でくるものである。
孟子曰く、水源から滾々と湧き出す水は、つきることがない。しかし、一時の雨が集まって流れる水はすぐにかれてしまう。これと同じように、根拠のない名声はすぐにかれてしまうものであるから、君子は実際以上の名声を得る事を恥とする、とある。中身のない人間が多くなったと思うがいかに...(華)

7月のことば 2006年度(丙戌、年盤/三碧中宮) 7月(月盤/九紫)
知分と知足

自身の分(ぶん)を知り、然(しか)る後に足るを知る。
佐藤一齋   言志四録(一)より

【訳文】
自分の分を知れば、そう望外のことは望めず、また自分の天分を自覚すれば現状で満足することを知る。

【語義】
分...自分と他人とを分かつ身分であり、分限。

【付記】
仏典にも「足るを知る者が、本当に富んでいるものだ」と教えている。そして「吾は唯、足るを知る」というのを、円相のなかに口という字を挟んで読むと、上が吾、下が足、右が唯、左が知という判じ物がある。

言志晩録にも、「人皆図将来、而忘過去。殊不知過去乃為将来之路頭。知分知足、在於不忘過去。」というのがある。
人はみな将来を図れども、過去を忘る。ことに知らず、過去はすなわち将来の路頭なるを。分を知り、足るを知るは、過去を忘れざるに在り。

人は皆、将来のことばかり考え、過ぎ去ったときのことを忘れてしまうものだ。どうも、過去というのは将来のへの道の標識のようなものだということを知らない。自分に与えられた(天)分を知り、これで十分だと足るを知るためには、過去のことを忘れないことである。過去をしっかり省察してこそ未来が展望できるものと思う。(華)

8月のことば 2006年度(丙戌、年盤/三碧中宮) 8月(月盤/八白)
王陽明の言葉

「心躁(そう)なれば則(すなわ)ち動くこと妄(もう)、心蕩(とう)なれば則ち視ること浮、心歉(けん)なれば則ち気餒(う)え、心忽(こつ)なれば則ち貌(かたち)惰(おこた)り、心傲(ごう)なれば則ち色矜(おご)る。」 昔人かって此の言ありき。之を誦して覚えずタ然(てきぜん)たり。
佐藤一齋   言志四録(一)より

【訳文】
昔、王陽明はこのようにいった。「心が騒がしく、落ち着かないと、動作がみだらになる。心がだらしなくなると、視ることも皆浮ついてくる。心に飽き足らぬものがあると、気力もだんだん衰えて、縮まってしまう。心が留守になると、顔も形もだらしなくなってくる。心におごることがあると、その顔色も人にほこる所があるようになる。」

自分(一齋)はこれを読んで、覚えず恐れ慎まなければならないと痛感した。

【語義・付記】
気餒⇒気力が萎縮すること。
昔人⇒王陽明。この語は観徳亭記にある。

人生で成功する、ということは本人の魂を養うことに成功する、ということである、と思う。仕事・人生を通して心をつくることに精進し、人格を磨かなければ巨万の富を得たとしても成功したとは言えない。それは人生の目的ではないからだ。人生の目的とは「人格の完成を目指すこと」だ。至難の技だからこそ生涯学習なのだ。(華)

9月のことば 2006年度(丙戌、年盤/三碧中宮) 9月(月盤/七赤)
難事に処する道

「凡そ大硬事(だいこうじ)に遇わば、急心もて剖決(ぼうけつ)するを消(もち)いざれ。須(すべか)らく姑(しばら)く之を舎(お)くべし。一夜を宿し、枕上(ちんじょう)に於いて粗商量(ほぼしょうりょう)すること一半にして、思いを齎(もたら)して寝(い)ね、翌旦(よくたん)の清明なる時に及んで、続きて之を思惟すれば、即ち必ず恍然(こうぜん)として一条路(いちじょうろ)を見、就即(すなわ)ち、義理自然に湊泊(そうはく)せん。然る後に徐に之を区処せば、大概(たいがい)錯誤(さくご)を致さず。
佐藤一齋   言志四録(一)より

【訳文】
すべて大きな困難な事件に遭遇したときは、急に解決しようとしてはいけない。必ずしばらくそのままにしておくがよい。即ち、一晩持ち越すことにし、枕元で半分くらいざっと考え、それを思いながら寝て、翌朝心が清く明らかになったとき、引き続いてこれを思案すれば、必ずおぼろげながらも一条の活路が見えて来る。そうなると、その難問題の義理(筋道)が自然に心の中に集まって来る。こうなって後にゆっくりとこの難問題を一つ一つ区別して処理して行けば間違うことがない。
自分(一齋)はこれを読んで、覚えず恐れ慎まなければならないと痛感した。

【語義】
●硬事(こうじ)⇒面倒な事件。
●急心⇒あせること。
●剖決(ぼうけつ)⇒はっきり決める。
●消⇒用。
●一夜を宿す⇒一晩留め置く。
●商量(しょうりょう)⇒はかり考える。善き程に計らう。
●思を齎す⇒考のまとまらないままにして考える。
●恍然⇒うっとりと。
●就即⇒二字ですなわち、と読む。
●湊泊(そうはく)⇒あつまる。
●区処⇒区別して処理する。
●錯誤(さくご)⇒あやまり。

【付記】
本文の主旨は、たいていの問題は「必死になって考えれば必ず活路を見出すことができる」ということであろう。大問題に出会ったら徒(いたずら)に逃げずに、まともにぶつかって解決すべきことを教えている。(言志後録より)

人生上に起きてくる問題は生きている限り、避けることはできない。まず、それをしっかりとあるがまま受け止めてみよう。そしてその問題が「自己を成長させるチャンス」と見るだけでも心にゆとりが生まれ、考えも自ずから整理され対応策も見えて来る。呼吸を深くし、ゆったりと構えて問題の真実をみる努力をしてみよう。(華)

10月のことば 2006年度(丙戌、年盤/三碧中宮) 10月(月盤/六白)
道心とは

「人は当(まさ)に自ら我が躯(み)に主宰あるを認むべし。主宰は何者たるか。物は何れの処にか在る。中を主として、一を守り、能(よ)く流行し、能く変化し、宇宙を以って体と為し、鬼神を以って迹と為し、霊霊明明、至微(しび)にして顕わるるもの、呼びて道心と做(な)す。
佐藤一齋   言志四録(2)より

【訳文】
人は自分の身体に、自分を支配するものがある事を認めなければならない。その支配するものとは何者であるか。また何処にあるか。 そのものは中正の道を主とし、そのことを第一に守り、あまねく行きわたり、よく変化し、この宇宙をもって本体となし、鬼神のような働きを示し、霊妙であきらかなものであり、至って微細でありしかも顕著なものである。人はこれを呼んで道心というのである。(次月の人心と比較されたい。)

【語義】
●主宰⇒支配するもの。荀子正名篇に
「心は道の主宰なり」とある。
●中を主とし⇒中正の道を主とし、その事のみを守る。
●迹(あと)⇒行動、鬼神のような働き。
●霊霊明明⇒霊妙にして明らか。
●道心⇒良心。

【付記】
【後録81条「道心は性(せい)、人心は情(じょう)」に、昔の人は、
「道徳の大本は道心と人心にあって、その細分されたものは、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の五つの人倫となる」
と言った。
自分(一斎)の考えでは、道心は人の本性であり、人心は人の情である。
人が良き方面に心を精一にして、中庸の道を守っていくのは、本体である性に基づいて
情を制約するものであって、ここに最も工夫がいる所である。
その工夫が最も著しく現れたところが五倫(親、義、別、序、信)の道である。
即ち父子親(ふししん)あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あり、の教えとなる。

このことは人情と本性の間に自然に感応する筋道が発見され、本性が人情に現れて見える所である。
まさにここが工夫のある所であり、本体が存在するわけも知られる。】

これを理解する、というより悟るには数々の人生上の深い経験をどう見るかの
工夫が必要。
ただ、ただ人の本性は良心なる性善説を私は信じたい。(華)

11月のことば 2006年度(丙戌、年盤/三碧中宮) 11月(月盤/五黄)
人心とは

「人は当(まさ)に自ら我れに躯(み)あることを認むべし。躯は何物たるか。耳は天性の聡(そう)有り。目は天性の明あり。鼻口は天性の臭味あり。手足は天性の運動あり。此の物や、各(おのおの)一に専らにして、而(しか)も自ら主たる能(あた)わざれば、則(すなわ)ち其の物と感応して、物の外より至るや、或いは耳目を塗(と)し、鼻口を膠(こう)し、其の牽引する所と為りて、以って其の天性を拗(よう)するあり。故に人の善を為すは、固(もと)より是れ自然の天性にして、悪を為すも亦(また)是れ拗後(ようご)の天性なり。其の体躯(たいく)に渉り、是くの如く危うきを以って、呼びて人心と做(な)す。
佐藤一齋   言志四録(2)より


【訳文】(前月の道心と対応。)
人は自ら自分には身体があることを認めなければならない。身体とはいったい何者であるか。耳には天然自然によく音を聴く利巧さがあり、目には天然自然に物を見る明がある。鼻や口は天然に物の臭いをかぎ、また物の味を知る働きがあり、手足には天然に運動する作用がある。
このようにこれらの器官は一部分ずつを専門に受けもつものであって、全体を司ることは出来ないのであるから、外物に感応し、外物が至れば、そのために耳目が塗りつぶされたり、鼻口が膠(にかわ)で張り付けられたり、外物に引っ張られてしまい、天然自然の自由な働きが撓(たわ)められてしまうものである。
故に、人が善をなすのはもとより天然自然の本性によるものであるが、悪をなすのもまた
(外物に)ねじられるという天性の作用によるものである。このように人間の本性の他の一面としての作用は、身体の各部分に渉っており、外物の悪影響をうける危険があるので、
これを(前条の道心に対応して)人心(我欲)というのである。

【語義】
●拗後之天性⇒耳目鼻口などが外物の誘惑をうけ、その本性が傷つけられるをいう。
●人心⇒我欲。

【付記】
道心、人心と述べられているが心にふたつあるわけではない。心の本体は道心といい、本性の姿(仏性、神性、真の自己など)をいう。身体に関係するところからいえば人心といい、つまり人間の情の働きである。道心が人心を制御する。(華)

12月のことば 2006年度(丙戌、年盤/三碧中宮) 12月(月盤/四緑)
常に目前の事をなせ
「人の事を做(な)すは、目前に粗脱(そだつ)多く、徒(いたず)らに来日の事を思量す。譬(たと)えば行旅(こうりょ)の人の齷齪(あくそく)として前程を思量するが如し。はなはだ不可なり。人は須(すべか)らく先ず当下(とうか)を料理すべし。居処恭(うやうや)しく、事を執るに敬、言は忠信、行は篤敬(とくけい)なるより、寝るに尸(し)せず、居るに容(かたち)づくらず、一寝一食、造次顛沛(ぞうじてんぱい)に至るが如きも、亦皆(またみな)当下(とうか)の事なり。其の当下を料理し、恰(かっこう)を得る処、すなわち過去将来を併せて、亦(また)自ずから恰好を得んのみ。」 佐藤一齋   言志後録より

【訳文】
人が物事をなすにあたり、目前の事に手ぬかり多く、徒(いたず)らに将来の事を思いめぐらしている。譬えば、旅人があくせくと行き先を考えるようなもので甚だよろしくない。
人は先ず、眼前の事を処理すべきである。即ち仕事のない時にも容貌を荘重にしており、仕事をする時は、敬(つつし)み、過ちのないよう心がけ、言葉も行もまことであり、寝る時には死人のような臥方(ふしかた)をなさず、平居(へいい)する時には容貌を飾ろうとせず、一寝一食、すこしの間も仁を離れないなどは皆、眼前になすべき事がらである。
その時々の問題を処理して、程よく行くようにすることが出来ると、過去から将来までを通して、自然に程よく事を処理し得るものである。

【語義】
●粗脱⇒手ぬかり。
●思慮⇒思いはかる。
●料理⇒はかりおさめる。
●当下⇒当面のこと。
●居処⇒家に居て仕事をしていないとき。
●言忠信⇒忠は、心と口が違わないこと。信は、言と行の違わないこと。
全体で言葉がまことである。
●行篤敬⇒篤は、うわついていないこと。敬は、過失のないようにつつしみ深いこと。
全体で行がまことである。
●寝るに尸せず⇒尸は屍。死人のような寝方はしない。
●容づくらず⇒儀式ばらない。
●造次顛沛(ぞうじてんぱい) ⇒造次はにわか。顛沛はつまづき倒れる。
全体でわずかの間。
●恰好⇒適当

【付記】
人が物事にあたるときに心したい訓えである。仏教も「いま、ここ」に生きることを教示しているが、先の事のみに気をとられると不安から、言行が乱れるものだ。常に「今、やるべきこと」を淡々と誠実にこなしていくことが結局は未来につながる。(華)