一月のことば
「学は実際ならんことを要す」 恭賀新年
吾人の学を為すには、只だ喫緊に実際ならんことを要す。終日学問・思弁し、終日、戒慎・恐懼するは、便ち是れ見在篤行の工夫なり。学は此の外無きのみ。若し見在を去卻し、べつに之を悠渺冥漠にもとめなば、即ち吾が儒の学にあら非ず。
言志四録(二) 言志後録 佐藤一齋
【訳文】
われわれが学問をするには、いつでも目前緊急なことに対するようにこれを実際に活用していくことが肝要である。一日中学問をして、思いを巡らし、一日中
戒め慎んでいるのは、現在のわが身について、その身の行いを篤くするの工夫である。学問はこの外にはない。もし現在目前の肝要なことは忘却して、現在とかけ離れたとりとめのない事に耽るというような学問の仕方は、われわれの信奉する儒学ではない。
二月のことば 二〇〇五年度(四緑中宮)
「順境と逆境」
順境は春の如し。出遊して花み観る。逆境は冬の如し。堅く臥して雪をみ看る。
春は固と楽しむ可し。冬も亦悪しからず。
言志四録(二) 言志後録 佐藤一齋
【訳文】
順境は万事が都合よく行くのであるから、あたかもうららかな春の日に外出して花を観て遊ぶようなものである。逆境は総てが意の如くならないから、寒い冬の日のようなものである。ちょうど、寒い日に閉じこもって雪を見ているに等しい。
春はいうまでもなく楽しむがよい。しかし、また冬の日も悪くはないものだ。
【注釈】
人生においては順境ばかりではありません。逆境のときこそ、物事の本質を見極めたり自己省察や反省を深くせねばなりません。それが深いほど順境のときの有難さや感謝も生じてきます。つまり、「寒いときは下へ下へと根を伸ばせ」です。
日々、好日とはこのようなことを含蓄したことばなのです。 (文責・蓮)
三月のことば
「心は平らなるを要す」
心は平らなるを要す。平らなれば即ち定まる。気は易なるを要す。易なれば即ち直し。
言誌四録(三)言誌晩録 佐藤一斎
【訳文】
外界がどうあっても心は常に平安であることが肝要である。心が平安であれば、自ずと心は安定する。気が安らかであれば、何事もまっすぐに行なうことが出来る
【付記】
言は簡単であるが、意は広い。
・心平らかなれば、寿し。<白楽天>
・心和し気平らかなる者には、百福自ずから集まる。 〈菜根譚〉
我々の心はこのように平らかであり得るかどうか。或いは怒り、或いは怨み、或いは憎み、或いは妬み、或いは絶えず不平不満をもち、絶えず心が動揺して落ち着かない。自分の本当の敵は自分のなかに巣を作っている自我、或いは我欲である。
四月のことば 二〇〇五年度(四緑中宮・六白中宮の月)
「学の工夫」
虚羸の人は、常に補剤を服せり。俄かに其の効を覚えざれども、而も久しく服すれば自ずから効有り。此の学の工夫も亦猶是くのごとし。
言志四録(二) 言志後録 佐藤一齋
【訳文】
身体の弱い人は、その弱さを補う薬を常用している。この薬は飲んですぐに効果が現われるというものではないが、長く飲んでいると自然に効能があるものである。われわれの聖賢の学の工夫というものもまた、丁度これと同じようなもので、急に効果は見えなくとも、絶えず努力を続けて行くうちに必ず進歩の功がみえるものである。
【付記】
かつて慶応義塾大学の塾長であった小泉信三博士は、ある本の中でこう述べている。「本を読んでものを考えた人と、まったく本を読まない人とは明らかに顔が違う。読書家は、精神を集中して細字を見るため、その目に特殊な光を生じ、これが読書家の顔をつくる。
しかし、ひとり眼光に限らない。偉大な作家、思想家の大著を潜心熟読することは人を別心たらしめる。これが人の顔にあらわれるのは当然であろう。」顔は心を現わすという。嘘はつけないものである。
五月のことば 二〇〇五年度(四緑中宮・五黄中宮の月)
「人君の学」
人主の学は、智仁勇の三字に在り。能く之れを自得せば、特り終身受用して尽きざるのみならず、而も掀天掲地の事業、憲を後昆に垂る可き者も、亦断じて此れを出でじ。
言志四録(二) 言志後録 佐藤一齋
【訳文】
長たる者が学ばねばならないことは智仁勇の三字にある。
即ち、
智者は惑わず
仁者は憂えず 勇者は恐れず
この三字をよく心得たならば、一生涯この三徳を受け用いて尽きないばかりではない。驚天動地の大事業を成就し、手本を後世に残すことができるのも、また、この三徳を実行に移す外はない。
【付記】
孔子はあるとき弟子たちにそれぞれ志望を尋ねたあとで、自分の志望を次のように披瀝された。
老人には安心されるように
友人には信じられるように
若者には慕われるようになることだ…と。
また、意なく、必なく、固なく、我なし…(勝手な心を持たず、無理押しをせず、執着をせず、我を張らない) とし融通無礙(ゆうずうむげ)な心を発露されている。孔子はそのように「無我の人」であったからこそ、同時に謙譲をその風格とする「至誠の人」であったと言えるであろう。このような聖人の泰然自若(たいぜんじじゃく)とした生き方こそが人生の目的である。目標、生きがいとの違いを学びたいものだ。(文責;華蓮)
六月のことば 二〇〇五年度(四緑中宮の年・四緑中宮の月)
「大言者は小量」
好みて大言を為す者あり。其の人必ず小量なり。好みて壮語を為す者あり。其の人必ずきょうだなり。唯だ言語の大ならず壮ならず、中に含蓄有る者、多くは是れ識量弘恢(しきりょうこうかい)の人物なり。
言志四録(二) 言志後録 佐藤一齋 より
【訳文】
世の中には好んで大きな事をいう者がある。そんな人は必ず度量が小さい。また好んで元気のいい言葉を言う人がいる。そんな人は必ず臆病である。
ただ、発する言葉が大きくもなく、元気があるわけでもなく、その中に深い意味を含んでいる人は、多くは見識も高く度量も広い人物である。
【付記】
大言壮語と気宇壮大はどう違う?
大言壮語:実力以上に大きなことをいうこと。いかにも偉そうになんでもできるようなことをいうこと。
気宇壮大:気構えや発想などが並はずれて大きいようす。「気宇」は心の広さの意。「壮大」はさかんで大きい意。と四字熟語辞典にある。
人物にも「ほんもの」と「にせもの」がいる。ほんものは人生の目的がなにであるかを正しく把握している。人生の目的は目標や生きがいとは異なる。どのような場にあっても人生の目的を持ち生きている人は目の前のことにおたおたせずに観察眼もあり実に冷静沈着、苦境をも切り開く智慧を備えている。(文責;華蓮)
七月のことば 二〇〇五年度 (四緑中宮) 三碧中宮の月
「人は各能あり」
人はおのおの能あり。器使すべからざる無し。
一技一芸は皆、至理(しり)を寓す。詞章筆札の如きも亦これ芸なり。 けだし器使中の一なるのみ
言志四録(二) 言志後録 佐藤一齋
【訳文】
人にはそれぞれ違った才能があるのだから、その長所に従ってそれぞれに使う途があるものである。一つの技、一つの芸にも皆立派な道理が宿っている。詩や文章や手紙を書くというようなことも、また一つの芸である。思うに、皆それぞれに使用に堪える一芸である。
【語義】
器使―論語
子路篇に「その人を使うに及んでや、これを器にす」とある。
これは、「人を使うには、向き向きにする」ということ、つまり適材適所である。
詞章筆札―詩歌、文章、手紙など。
【付記】
人はどんな人でも、役に立たない人はないことを述べたものである。昔、或る名将は、泣くことの上手な男を召し抱えていた。人々はあんな泣くことしかできない男をどうするのかと馬鹿にしていた。
ところが時機を見て、このなき男を敵方に放ち、自分の大将は死んだ、こんな悲しいことはないと泣いて申し立てさせた。その泣き方が上手なので、敵は本当だと油断してしまい、そのすきに攻め込んで勝利をおさめたという話がある。何でも特徴は役に立つものである。
八月のことば 二〇〇五年度 (四緑中宮) 二黒中宮の月
「言を容れざる人と話すな」
能く(よく)人の言を受くる者にして、而る後にともに一言すべし。人の言を受けざる者と言わば、ただに言を失うのみならず、まさに以って尤め(とがめ)を招かん。益無きなり。
言志四録(二) 言志後録 佐藤一齋
【訳文】
よく人の言葉を受け容れる者であって、初めてその人とともに一言を交えてもよろしい。人の言葉を受け容れない者と言葉を交わせば、ただ言葉を損するばかりでなく、(つまりしゃべっても何の甲斐もないばかりでなく)かえって、そのために言葉の咎(とが)を招くであろう。まったく益のないことだ。
【付記】
本文の後段の場合は、まさに「物いえば唇寒し、秋の風」ということであろう。
人の言葉を受け容れられないものは概ね小人物といえる。器量が小さいと多視点的な
ものの捉え方ができにくい、また自己執着性が強いことが多いようだ。 心しなければならない。
九月のことば 二〇〇五年度 (四緑中宮) 一白中宮の月
「事の大小と器の大小」
事に大小あり。常に大事を斡旋する者は、小事に於いては即ち蔑如(べつじょ)たり。今人常に小事を区処(くしょ)し、済(な)し得る後、自ら喜び、人に向かって誇説す。是れ其の器の小なるを見る。又是の人従前未だ會って手を大事に下さざりしを見る。
言志四録(二) 言志後録 佐藤一齋
【訳文】
物事には大事と小事とがある。常に大事を取り扱っている者は小事を軽く見る。今ここに人があって、常に小事を区分処理し、それを成し終わるや、自ら喜び、人に向かって、自慢話をする。これはその人の器が小さいことを示すものである。また、この人はこれまでに一度も大事を手がけたことのないのを示すものだ。
【語義】
[斡旋] 事をほどよく取り持つこと。
[蔑如] 軽蔑するさま。
[区処] それぞれに部わけして処分する。
[器] 人物、器量
大事を行うときは細事、小事をおろそかにしてはならない。水をも漏らさぬ細心の注意が必要であろう。小事にのみ関わっている者は大事が見えないことがおおい。事の展望を欠いては方向を間違う。事を成すには両者ともに心しなければならない。(華)
十月のことば 二〇〇五年度 (四緑中宮) 九紫中宮の月
「春風を以って人に接し、秋霜を以って自ら粛む(つつしむ)」
言志四録(二) 言志後録 佐藤一齋
【訳文】
春風のなごやかさをもって人に応接し、秋霜の鋭さをもって自らを規正する。
【付記】
大変によい教訓である。これで想起するのは山本玄峰禅師(三島市竜沢寺 昭和36年没)の次のことばである。
「人には親切、自分には辛切、法には深切であれ」 法とは仏法、真理のことである。自己練磨するためにも、是非心したい名言である。(華)
十一月のことば 二〇〇五年度 (四緑中宮) 八白中宮の月
「識量は知識と自(おのず)から別なり。知識は外に在りて、識量は内に在り。」
言志四録(二) 言志後録 佐藤一齋
【訳文】
識見・度量と知識とは全く別ものである。知識は自分の外にあるものであり、識見・度量は自己の内から発するものである。
【付記】
識量と同様に内から発するものに智慧がある。知識(knowledge)は、読書や授業などにより外部から得られるものである。これに対して智慧(wisdom)は賢さであり、これは内部より湧き出すものである。知識がなくとも智慧があることが望ましいのに、今の日本は学校教育は知識の詰め込みばかりで、智慧を磨くことをやらせない。自分で考えだす力こそ一番大切なことを心にとめておきたい。頭がいい、ということは創意工夫があるか、ということができるだろう。(華)
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